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建物の屋上からは最初に立ち寄ったかき氷屋もよく見え、現在も恐ろしいほどの賑わいがうかがえる。あの人だかりでは落とし物をしても仕方がない、と言うでもなく彼女のほうを向くと、同じ事を考えていたのかバチッと目があった。
「かき氷代借してくれてありがとう。明日学校で返すから」
あ、一人で食べてごめん、と容器を僕に差し出すものだから、驚いて背筋が伸びる。
おごると言ったのに新学期早々返済すると申し出る律儀さは彼女らしいが、これまでにない展開に僕は動揺した。
「いいよ」
二つの意味で。
「でも」
「いいよ」
出来るだけ印象が悪くないように、優しく聞こえるように、そう答えた。
「財布はあとで探しに行こう」
引っ込めた手を持て余す彼女に提案すると、
「きっと見つからないよ」
諦めた、とストローをくわえながら息を吐く。
「たぶん最初の店じゃないかな」
「探そうにも、あそこじゃ人の波に押されて足元も見えないもの」
この人の多さでは返ってこないと思うのも無理はない。けれど。
「じきにひくから大丈夫」
ほら、と先ほどの露店を指差す。ちょうど話の途中で店主が警察に連行されるところだった。何をしたかは知らないが、野次馬が連れ立って警察のあとを追うものだから、それを見た人がさらに野次馬となって群れをなす。おかげで道いっぱいに溢れていた人だかりは落ち着き、店の周辺はずいぶんとすっきりしていた。
手すりから体を離し、不思議そうに驚く彼女に手招きをする。
「さて、探しに行こうか」
「えっ」
「財布」
まだ事の整理が出来ていない様子の彼女は、その場から動かない。
「それとも、浴衣が動きにくければ僕一人で行こうか」
物探しをするには適さない服装だ。彼女にはここで待っていてもらって、僕だけで探したほうがよいだろう。考えあぐねる彼女を背に、階段へと向かう。
「待って」
あと数歩というところで、体が後ろに引っ張られた。手のひらにじわりと汗がにじむ。それでも滑り解けないほど強く握られた手に、心拍が上がる。
「花火、はじまっちゃう」
焦ったような、戸惑ったような、ともかく普段の飄々とした彼女からは想像もできない声に、思わず振り返り、どんな顔をしているのか見てみたくなる。しかし僕も見せられないほど顔が熱いので、しばらくは明後日のほうを見てやり過ごすしかない。あぁ、やはり慣れない。
「あと少し、時間があるから」
「うん。でもこのために来たのに、見られなかったら...」
「そうじゃなくて、その...手」
始まるまでこのままなのか。それとも終わるまで。なんならずっとでもよいけれど。いずれにせよ僕の心臓がもちそうにない。
「あっ」
ハッとしたように離された手を名残惜しむかのごとく握った空気は、やはりどこか物足りなかった。
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