夕凪の紫苑

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 足跡の続く波打ち際は夕焼けを映し、時折打ち寄せる穏やかな波が少しずつ凹凸を均して行く。自分の歩いて来た砂浜を眺めていた僕は、ふと思い立って頭上に広がる空を仰いだ。  夏の夕は不思議だ。金色に澄んだ西の裾に茜や紫が滲み出し、移り変わる色を隠すかのように薄紅の雲がたなびく。   「黄昏時…『Twilight』。夏の夕方は怪異に出会いやすいなんて聞くけど、最初にそう言い出した人は一体どんな物の怪を見たんだろう」  隣に視線を戻すと、まっさらな渚に裸足で佇む彼女がこちらを…いや、僕の向こうに広がる海を眺めていた。夕日に染まる白いワンピースが、緩く頬を撫でた潮風にふわりとはためく。  波音の隙間に紡がれた声と、藍色に凪いだ海原を映す瞳。すらりと伸びた白い脚に、黄昏を映してさざめいた小波がちゃぷりと楽しそうにじゃれつく。 「…古い言葉だと『逢魔が時』と言ったりもするし…昼と夜の狭間で、且つ夜を迎える前の時間だから…?」 「…確かにね。でも、私は他にも理由があると思うの。眩しくて、でも透明で、鮮烈に記憶に焼き付く…そんな不思議な景色がきっと、怪異のように『素敵』に見えたんじゃないかな」  遠くの夏空に木霊する潮騒に、彼女の豊かな黒髪が揺れる。海岸に供えられた花束を一目すると、彼女は「だって…こんなに綺麗なんだもん」と、透き通りそうに細い指で水平線を指差した。  凪いだように柔らかな視線は、沈み行く太陽が落とす海上の道筋に融けて行って。 「忘れ難くて幸せなもの…もしかしたら、夏の思い出そのものが物の怪なのかもね」  眩しさに細めた視界の中で、夕日に透ける端正な横顔はふふ、と綻ぶ。  渚に続く一つの靴跡は、静かに打ち寄せた小さな波に泡と消えた。
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