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 冷たい水が顔に当たって目が覚めた。  また雨漏りだ。  昨日の遅くから降り出した雨は朝になっても止んでいなかった。  雨漏りの染みが天井にトランプのダイヤのようになっている。  この家の雨漏りは窓側のテーブルの上、台所の上、そして、いま私が寝ている和室の天井のど真ん中。  テーブルの上も台所もびしゃびしゃになっているだろうから、起きて拭かなくちゃと一瞬思ったけど、なんかもういいやって布団を頭からかぶった。  いっその事、このまま部屋が水浸しになって、そのまま窓から布団が流れて、川に流れ、海に出て、どこか遠くに行ってしまえばいい。 誰も知らない島に流れ着いて、島一番のイケメンに激しく求愛されて幸せに暮らす。わたしは美しき島の女王として末永く語られる存在になる。  そんな空想をしたのはまだ寝ぼけているのか、アキラが帰ってこない現実から逃げたいからなのか。  どっちにしても、私はもうあんなバカ男のことであれこれ考えるのにうんざりしている。  あんな男、私の方から捨ててやる。  今年になってから何回思っただろう。  別れを口に出しても、「また、すぐそんなこと言っちゃって」とヘラヘラと笑いながら抱いてごまかす。  そんなアキラも嫌だし、抱かれると許してしまう自分はもっと嫌だった。 「もう三十二だよ。ナミ、どうすんのこれからマジで」アズミもサトミもアヤも、母さんも妹も近頃はみんな同じ事を言う。  わかってる。  ホント、どうすんの、私。    アキラの職業はイベントオーガナイザー。  名刺にもそう書いてあるけど、何度説明されてもよくわからない。  要はクラブのDJイベントの主催みたいなんだけど、本人は主催者ではなくイベントオーガナイザーだと頑なに譲らない。  私の親に会ったときもイベントオーガナイザーについて語り出して、寡黙な父がついに死んでしまったかと思ったぐらい黙り込んでしまった。  あの後、父は怒るというより何かとんでもないものを見た顔で「おまえは本当に彼でいいのか」と聞いた。母はその後ろで泣いていた。 「大丈夫、アキラは見た目よりマジメでしっかり者だから」  あの時の私に「早く目を覚ませ、バカ」と言ってやりたい。  本当にわたしはバカだ。  家に帰ってこない。ロクな稼ぎもない。保険にも入っていない。もちろん年金も入っていない。左腕に大きく「FUCK」とタトゥーを入れて帰ってくる。タバコは吸わないけど、酒を飲んだら潰れるまで飲み続ける。三ヶ月に一度は酔って警察に保護される。とにかくおっぱいが好き。  そんなアキラがたまらなく好きなわたしは本当にバカだ。  どうせなら他に女でも作ってほしい。わたしを殴って蹴っ飛ばしてDVでもなんでもしてほしい。なにか別れる決定的な理由があれば、もっと早くに別れることができたと思う。  なのにアキラは優しい。わたしのことが大好きで、手を上げたことなんていままでにないし、ケンカだってしたことがない。私が怒ることはよくあるけど、アキラはまったく怒らない。嫌いになれない。  別にこのまま私が働いてアキラと二人で暮らしていくこともできる。  でも、私のしわがいまよりもっと増えて、髪も白髪染めしなくちゃいけないようになって、ドモホルンリンクルのCMを見て、電話してみようかなんて思う歳になったとき、アキラはちゃんと私の隣にいてくれるだろうか。  男の人はいい。三十五になったって四十になったっていくらでも若い子と恋ができる。女は、特に私みたいな地味な女は歳をとったら誰も相手にしてくれない。  アキラに結婚という考えはまったくない。フリーダムという言葉を全ての言い訳にして生きてきたような人だ。それはもう出会った頃からわかっていた。わかっていたのにどうしてこんな人を好きになったんだろう。出会ったときはまだ三十路女になることがわかっていなかった。  二十八の私は後悔なんて考えもしなかった。  こんな切ない朝を迎えるなんて思ってもみなかった。  人並みに幸せになっていると信じていた。  いまはもう幸せの意味がわからない。  雨音が強くなってきた。  布団から顔を出し、テーブルを見た。  写真立てが濡れていた。  アキラと一緒の写真。  ちょうど私の顔が泣いているように雨の雫が流れていた。  あんなに笑っていたのにね。  私は声を殺して泣いた。
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