『杞憂』直彦視点

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『杞憂』直彦視点

「痛っ…。家に帰ったら、胃薬でも呑んでおくか……」  甚一郎の家を後にした帰り道、直彦はシクシクと痛む胸にぎゅっと手を当てる。  もうそんなことでは気休めにしかならないだろう。そうでなくとも、ここ最近よく眠れていない。  直彦は人に神経質で生真面目な性格が顔に出ているとよく言われる。自分でもこの顔が嫌いだった。  感情の起伏が読めない端正な造り、常にへの字に結ばれた薄い唇、しかめっ面をすることが多かったからか、いつしか深く刻まれた眉間の縦皺は少々表情を緩めたくらいでは(ホグレ)れない。色素の薄い肌もいけないのかもしれない。  その上、店員に「お似合いですよ」と勧められた硬質なシルバーフレームの眼鏡が、直彦の神経質な雰囲気を助長させていた。  鋭角に差し込む朝の陽が直彦の背に当たって、頬に濃い影を落とす。  世の中はこんなに躍然たるエネルギーに満ち溢れているというのに、直彦の心はそれとひどくかけ離れている。その落差がより直彦を惨めにした。  数週間前、直彦は長年連れ添った恋人・甚一郎の元を身一つで出てきた。  ズボラな甚一郎に愛想をつかして三下り半を叩きつけてきたと言えば聞こえは良いが、その実、長年感じてきた甚一郎と自分との想いの差に遣る瀬無くなったのが原因だ。  先に惚れたのも直彦なら、甚一郎の元に転がり込んだのも直彦。尽くすのはいつも自分ばかり。  直彦がかける想いの何分の一も、甚一郎が想ってくれていないことはよく分かっていた。  だからこそ、あれは藁を掴む思いで取った、一か八かの逃避行だった。  けれども、数週間が経とうというのに、甚一郎からの連絡は何一つない。それこそ昨日は甚一郎の三十路の誕生日だったというのにだ。心の中に入り込んだ秋風が音を立てて吹き荒んでいく。 「俺なんて、所詮、……どうでも良い存在だったのか」  甚一郎にとって、直彦は通過点。何もしなければ、小さな痕跡を残して、このまま薄れゆく存在になるのだろう。  だが、直彦にとって、甚一郎は心の拠り所、全てだった。  この数週間、甚一郎の存在の大きさをまざまざと自覚させられ、このまま一生甚一郎なしで生きていくことになるのではないかと怖くなった。そうして一縷の望みをかけてアクションを起こしたのが昨日の午後だ。  非社交的な直彦が柄にもなく同僚の女の子に話題のパテスリーはどこかと尋ね、仕事を早く切り上げ、興味本位な周囲の視線に耐えながら長い列に並び抜き、そこのスペシャリテだというケーキを手に入れた。緊張した心持ちで甚一郎の家を訪ねた時には優に夜の八時を回っていた。  久々に足を踏み入れた甚一郎の部屋は、あのズボラ男にしては珍しく整然と片付けてあった。直彦と一緒にいた折りは、洗い物どころか食べた皿すら机の上に置きっぱなしだったというのに、目覚ましい変化だ。 「俺の言ったことが、ちょっとは身につまされたのか?」  けれども、不在の家主に何か作っておいてやろうかと、冷蔵庫を開けた瞬間、甚一郎のここ最近の生活がありありと見て取れた。  庫内にはほとんど食材が入っておらず、申し訳ない程度に残されたツマミの残骸がどんと置かれた中央で存在を誇示している。どうやら甚一郎は仕事が忙しいのにかまけて、まともな食事を取ってないようだ。  それに、周りを見回せば、直彦の私物も手つかずまま残っていた。 「代わりができたわけじゃなさそうだな…」  甚一郎はのっそりとしたクマのような風貌通り、女に器用なタイプではない。多忙さも手伝って、直ぐには直彦の代わりになる恋人を見つけることはできなかったのだろう。  けれども、鷹揚な分、直彦が転がり込んだ時と同様に、甚一郎の胸に飛び込みたいという者があれば、来る者拒まずで受け入れてしまうかもしれない。  それから直彦は朝まで何が何でもしがみ付かなければと、甚一郎の帰りを待った。  だが、一向に甚一郎が帰ってくる気配はない。夜勤もある不規則な勤務形態の警察官の身だ。この時間に帰らぬのであれば、十中八九仕事で帰って来れないのに違いない。  今会うのを諦めた直彦は、空が白んでくると同時に甚一郎の家を後にした。  だが、直彦が仮住まう親戚の空家までやって来たところで、ポケットに入れていた携帯が震えた。  恐る恐る開けてみると、待ちに待った甚一郎からの通知だった。  直彦が立つのと入れ替わり、ほんの僅かな差で甚一郎が家に戻ってきたのだろう。直彦が来ていたことにも、直に気づいてくれたようだ。 「昨日は来てくれたんだな。今までことは俺が悪かった。反省している。帰ってきてくれ」  文面から、平謝りする必死な甚一郎の表情が思い浮かんだ。 「今になって、何だよ………。懲らしめようと思って出ていったわけじゃないんだ。本当に…、懲らしめるって……、どっちがだよ………」  地面のコンクリートがポタリと落ちてきた雫で色が変わるのを見て、はじめて自分が泣いていることに気づいた。  自覚した途端、次から次へと熱いモノが目頭からあふれ出てきて、どうしようもなくなった。  けれども、いつまでも続くツンと痺れる鼻腔の痛みにはヒドく甘い気分にさせられた。 「今更こんなの…、甚一郎らしいな。帰るか………」  直之はカバンから取り出した手鏡で、目や鼻は赤らんでいないか、他に先ほどまで泣きはらしていたと悟られるところはないかを確認すると、来た道を軽い足取りで引き返した。  とある秋冷の朝――。85cdd703-d32b-425c-874f-28cdb07d0fe4       おわり
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