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保坂視点
甚一郎は、貫徹の張り込みで疲弊した体を半ば引きずるようにして自宅へと戻ってきた。
腹だって減っている。昨晩は車中で小さい菓子パンを1つ齧っただけだ。この巨体を支えるにはとても足りない。けれども、途中のコンビニに寄る気力は残っていなかった。
敵が一枚上手だったのか、自分たちが甘かったのか。掴んだガセネタに踊らされ、犯人の尻尾すら掴むことができなかった。体以上に心が疲れを感じていた。
甚一郎は玄関に衣類を無造作に脱ぎ棄てると、身にしみついた習慣で冷蔵庫の扉を開ける。
「案の定、しけてるな……」
上段には360ml缶のビールが3,4本転がり、中段には先日食べ残したツマミのサバ缶とチーズが皿の上で干からびている。サイドポケットに申し訳ない程度に並ぶ生卵と飲みかけのミネラルウォーター。あるのはそれだけだった。
容易に想像ができた現実だったが、甚一郎は心のどこかで”もしも”を考えていた。
「もうここにアイツが来るわけがないか……」
数週間前まで甚一郎の恋人だった直彦。
直彦とは学生時代からの付き合いだったが、正反対のタイプだった直彦がどういうわけか甚一郎を慕い、家に転がり込んで10年ちょっと。これまで些細なケンカは度々すれど、上手くやってきたつもりだった。
それが突然甚一郎は「お前のガサツでズボラなところが、もうどうにも我慢ならない」と三下り半を叩きつけられ、古いちっぽけなアパートに一人残された。要は愛想をつかされたのだ。
この頃は職業柄生活のリズムも異なり、すれ違いになることも多かったけれども、甚一郎は直彦が面倒見が良いのを良いことに完全に甘えていた。直彦に何度注意されようと、お願いされようと、真剣に鑑みて直そうとしなかったのだから、甚一郎が悪い。
けれども、いつも失ってから気づく。あんな出来た嫁は他にいなければ、自分には勿体ないくらいだったと。
重い溜息をふぅと吐き出し、庫内をもう一度見まわす。
すると、野菜室の半透明な仕切り越しに、うっすらと透けて見える白い箱に気づいた。
「そ、そうか…、昨日は俺の………」
三十回目の誕生日だった。
甚一郎はおもむろにトレイを引き、中を確かめると、白い箱には付箋が一枚貼り付けられていた。
アイツらしい几帳面な字が行儀よく並んでいた。
”保坂へ、これは俺のです! エーグ〇ドゥースの看板スウィーツのシャンティフレーズです。1時間並びました。くれぐれも意地汚く一人勝手に食べないように! 直彦より”
「おいおい、なんだよ、俺にくれるわけじゃねぇのか。しかも、意地汚くって…。だけど、なんだ? 一人ではってか………。アイツ…、俺のこと、許してくれるっていうのか?」
嬉しさで不用意に赤らんだ頬の熱を拭おうと、手の甲で不揃いに伸びた無精ヒゲを荒々しく擦りあげる。
「連絡…、入れてみるか……」
実のところ、図体のデカさに反して気の弱い甚一郎は、直彦に無視されるのが怖くてできなかったアクションだ。
「だけど、なんて言えば良いんだ? 『今帰った』、いや『今日は非番。これからしばらくいる』…。違うな、これか。『俺が悪かった』、『待っている』、『ありがとうな』……。かはぁ~~~、どう言ったら正解なんだよ。トホホ…」
二度と直彦の手を離すわけにはいかない。ああでもないこうでもないと頭をひねらせ、甚一郎は小さい画面と格闘した。
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