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「おぉ、会いたかったよ絹子、もっとこっちへおいで」
その声が頭上から聞こえたことで、私は自分が離れ座敷の縁の下にいることを思い出したのでございます。
そして、なんとまずいことになってしまったのかと、心の中で頭を抱えました。
お分かりですね。
そうです、離れ座敷は書生や妾の居室として使われる他、密会にも重宝するものです。私はそれとは知らず逢い引きの床の下に居合わせてしまったのだと思い、生きた心地がしませんでした。
「絹子や、今日は新しいお着物を土産に持ってきたんだよ、どうだい綺麗だろう?」
普段聞くことのないような優しい声音でしたが、その声の主は岸上實篤伯爵に間違いありませんでした。旦那さまが絹子という女性と逢い引きしているらしいその床下で、私は息を殺しておりました。
ところが、私は次第に、おや、と思うようになりました。實篤さまの口上が、通常女性を口説くような様子ではなかったからです。
「ではこの菖蒲柄のお着物は、おトヨに着せてあげることにしよう。ほら絹子や見てごらん、夏らしい柄だろう? おトヨも喜んでいるよ」
聞こえてくるのが、實篤さまの声だけだというのも気にかかりました。どんなに声の小さい女性でも、真下にいる私に少しも聞こえないのはおかしいと思ったのです。
「そうだ、英国から取り寄せた珍しいお菓子もあるよ。乾蒸餅というんだ。おトヨと絹子に一つずつあげるから、一緒に食べよう」
實篤さまの声音はまるで、女性というよりは子どもと話しているようでした。それも、愛しくてたまらない、小さな姫に話しかけるような……
そのとき私は、旦那さまには幼くして亡くしたお嬢さまがいらしたことを思い出したのです。
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