いつか今になる将来を、僕は歌う。

9/14
前へ
/14ページ
次へ
「森谷さんもさ、自分の時間しっかり取りなよ。仕事だけが人生じゃないんだから」  思考の沼に沈みかけていた僕は、岩上先生の言葉を受けて我に返る。 「そうですね。最近、『ワークライフバランス』とか言われますしね」  ははは、と愛想笑いで受け流そうとしたけれども、岩上先生はさらに詰めてきた。 「仕事以外のことでさ、なんかやりたいこととか、ないの?」 「やりたい……こと?」   『早くやりたいことを見つけるんだぞ』 『将来やりたいことをやるために今頑張りなさい』  赴任してから三ヶ月、生徒たちを前にして僕自身が何度も口にしてきた、「やりたいこと」という言葉。  けれど、今しがた耳に届いたその言葉は、初めて習った英単語のように、馴染みのない色を帯びていて。  いつからだろう。  自分の気持ちを見つめるのをサボっていたのは。  心の奥に耳をすませるうち聞こえてきたのは、今日の放課後、音楽室から漏れていた軽音部の演奏。  記憶の中の(ひず)んだ和音が、喉元から単語を押し出した。 「ギター」 「ん?」 「ギター、やってみたいと思ってるんですよね」 「いいじゃん、かっこいい。なんかきっかけあったの?」 「大学の時に軽音部でボーカルやってて、楽器はやってみたいなと思いつつ、結局やらないまま引退しちゃったんですけど。通勤中とか音楽聴いてると、やっぱりやりたいなって」  そうか。  忙殺されていて自分の気持ちに気づいてなかったけど、僕はこんなことを考えていたのか。  一度口に出してみると、ますます気持ちは膨らんでいく。  だけど、 「まあ、当分は仕事に集中しようと思いますけどね。特に今は新人ですし」 「ん?」  子供は遊ぶのが仕事だと言われる。  逆に言えば、遊ぶのは子供の仕事だろう。  僕はもう、日が暮れるまで公園で駆け回る小学生でも、スポーツに打ち込む中高生でもない。 「ある程度仕事の要領がつかめて落ち着いてきたら、自分の趣味にも挑戦してみるかもしれません」  その時々抱いている感情に従った行動が、必ずしも許されるわけではない。  だって僕は、大人で、教師で、社会人だから。 「仕事が中途半端な状態で新しい趣味を始めるのは、生徒さん達に不誠実じゃ——」  カン、と鋭い音が、僕の舌を止めた。  岩上先生がグラスをテーブルに叩きつけた音だった。  鮮血のようなワインがグラスの中で波打ち、ダークブラウンのテーブルに数滴の赤色を落とした。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加