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「森谷さんもさ、自分の時間しっかり取りなよ。仕事だけが人生じゃないんだから」
思考の沼に沈みかけていた僕は、岩上先生の言葉を受けて我に返る。
「そうですね。最近、『ワークライフバランス』とか言われますしね」
ははは、と愛想笑いで受け流そうとしたけれども、岩上先生はさらに詰めてきた。
「仕事以外のことでさ、なんかやりたいこととか、ないの?」
「やりたい……こと?」
『早くやりたいことを見つけるんだぞ』
『将来やりたいことをやるために今頑張りなさい』
赴任してから三ヶ月、生徒たちを前にして僕自身が何度も口にしてきた、「やりたいこと」という言葉。
けれど、今しがた耳に届いたその言葉は、初めて習った英単語のように、馴染みのない色を帯びていて。
いつからだろう。
自分の気持ちを見つめるのをサボっていたのは。
心の奥に耳をすませるうち聞こえてきたのは、今日の放課後、音楽室から漏れていた軽音部の演奏。
記憶の中の歪んだ和音が、喉元から単語を押し出した。
「ギター」
「ん?」
「ギター、やってみたいと思ってるんですよね」
「いいじゃん、かっこいい。なんかきっかけあったの?」
「大学の時に軽音部でボーカルやってて、楽器はやってみたいなと思いつつ、結局やらないまま引退しちゃったんですけど。通勤中とか音楽聴いてると、やっぱりやりたいなって」
そうか。
忙殺されていて自分の気持ちに気づいてなかったけど、僕はこんなことを考えていたのか。
一度口に出してみると、ますます気持ちは膨らんでいく。
だけど、
「まあ、当分は仕事に集中しようと思いますけどね。特に今は新人ですし」
「ん?」
子供は遊ぶのが仕事だと言われる。
逆に言えば、遊ぶのは子供の仕事だろう。
僕はもう、日が暮れるまで公園で駆け回る小学生でも、スポーツに打ち込む中高生でもない。
「ある程度仕事の要領がつかめて落ち着いてきたら、自分の趣味にも挑戦してみるかもしれません」
その時々抱いている感情に従った行動が、必ずしも許されるわけではない。
だって僕は、大人で、教師で、社会人だから。
「仕事が中途半端な状態で新しい趣味を始めるのは、生徒さん達に不誠実じゃ——」
カン、と鋭い音が、僕の舌を止めた。
岩上先生がグラスをテーブルに叩きつけた音だった。
鮮血のようなワインがグラスの中で波打ち、ダークブラウンのテーブルに数滴の赤色を落とした。
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