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第三章:水野 陽太
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「・・・つまり、力F1と力F2が平行でない場合、これら二つの力をそれぞれの作用線の交点まで移動し、平行四辺形の法則によって合成することで・・・」
退屈な物理の授業に欠伸を噛み殺しながら、教科書の隅にパラパラ漫画を描くことで、その眠気と戦っている陽太の姿が有った。社会に出たら物理なんて使わないのに、とは勉強をしたくない子供の常套句ではあるが、実はそうでもないということは自分の父親を見て知っている。例えばエンジニアなどになれば、数学、物理、化学、或いは生物を使って給料を稼ぐことになるのだから、必要無いでは済まされないのだ。
「では、F1、F2が平行で、同じ向きの場合の合力Fを考える時は・・・」
昨日、友達と夜遅くまでLINEで話し込んでいたからに他ならないのだが、それでも眠いもは眠い。その根本原因が自分に有ったとしても、人間の生理的な反応なのだからどうしようもない。「今日こそは少し、LINEを控えよう」と思いつつも、実際にスマホを手に取ると、それこそ時間を忘れてのめり込んでしまうのだった。
そんな陽太に救いの鐘が鳴る。
キーーン、コーーン、カーーン、コーーン・・・
それまで抑圧されていたものが弾けたように、教室内の空気が一瞬にして活気を帯びた。空気中の分子の活性が上がって、気温が上昇したような感じだ。自分は物理よりも化学の方が性に合っているのかもしれないと陽太は思った。
「それじゃぁ、今日はここまで。力が平行で逆向きの場合はどう考えるべきか、各自家に帰ってから自習しておくように。あっ、ちょっと待って。みんなそのままで」
そう言ってクラス担任でもある平峯は、騒ぎ始めた生徒たちを席に付かせると、廊下の方に向かって手招きをする。よく見ると、教室の入口の向こうに人影が揺れていて、その影の主は躊躇いがちに引き戸を開けた。
「このクラスに編入することになった、渡部葵さんだ。今日は挨拶だけで、明日からみんなと一緒に勉強する。さぁ、入って」
招き入れられた葵は少し恥ずかしそうにしながらも、平峯の横に立つと、意外にもハキハキした声で自己紹介をした。
「明日から、この二年四組で一緒に勉強することになった、渡部葵です。水戸黄門の葵の御紋の『葵』と書きます。あと、駅前の天ぷら屋さんの『葵』も同じ字です。よろしくお願いします!」
パチパチパチと統一感の無い拍手の後、平峯は続けた。
「席はとりあえず、窓際の一番後ろでいいかな? 学級委員! 明日までに机と椅子を用意しておいてくれ。体育館の裏の物置から、なるべく綺麗なのを選んでな。じゃぁ、今日の授業はここまで」
平峯が教科書や出席簿を重ねる「パタン」という音に合わせて、学級委員長が号令をかける。
「起立・・・ 礼・・・ 有難うございました」
「有難うございました」
葵は、みんなが自分に向かって礼をしているような不思議な感覚に襲われ、クスリと笑みを漏らしながら一緒に礼をした。
「それじゃぁ、渡部さん。一旦、職員室まで戻りましょう」
「はい」
二人は連れ立って教室を出て行った。陽太は、立ち去り際の葵がチラリとこっちを見たような気がした。
二人が出て行った後の教室は、それはそれは大騒ぎになったことは言うまでもない。
「すっげー、可愛い娘じゃん!」
「誰? 誰? 何中?」
「ちょっと男子、鼻の下伸ばし過ぎぃ~」
「聞いてないよ~っ!」
「てか、あの娘、この辺の娘?」
男子も女子も入り混じって大騒ぎが始まった。やれ「顔は知ってる」とか、「名前をどこかで聞いた」とかあやふやな情報が錯綜し、終いには「BLC49の新規メンバー」だとか、「真夜中に商店街を全力疾走していた」などと怪しげな噂も舞い上がる始末。しかし、そんな喧騒を吹き飛ばす声が響き渡る。
「私、あの娘、知ってる」
皆が一瞬押し黙り、発言者である女子生徒を見つめた。唯香であった。
「葵ちゃんでしょ? 私、中一まで同じクラスだったよ」
クラスの大部分が貴重な証言者の周りに集結し、急遽、事情聴取が始まった。
「えぇ、じゃぁ、淀中ってこと? 俺、知らないな、あんな娘」
「100メートル、何秒くらいで走るの?」
「今まで別の高校に行ってたのかな?」
「ってことは夏元康さんに逢ったこと有るってことでしょ? 凄~い!」
一度に色んな質問 ──その内の何割かは、どうでもよい質問だったが── を投げ掛けられて、堪らず唯香は声のトーンを上げる。
「わ、私、詳しくは知らないんだ・・・ だって・・・」
クラス一同、再び押し黙る。皆の視線が突き刺さり、耐えきれずにといった風情で彼女は続けた。
「だって葵ちゃん、中一の時に交通事故に遭って、それきり学校に来なくなっちゃったんだもん」
そのやり取りを少し離れた所で聞いていた陽太は、記憶の奥を掘り返し、確かに該当する女の子の存在を認めたのだった。そう、「交通事故」というキーワードが、その切れかかった記憶の糸を再び手繰り寄せる決め手となったのだ。
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