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例によって陽太の家で学校帰りの勉強をした葵を、陽太が彼女の家まで送り届けていた時だ。その道すがら、葵は言った。
「凄いね、陽太って」
「何が?」
「だって、授業中寝てばっかりいるくせに、数学とか物理とか、すんごく良く判ってるんだもん。あれってひょっとして、寝てる振りしてるとか?」
「馬鹿、んなわけ無いじゃん。俺、こう見えても理数系だから、その辺は得意なの」
陽太は帰りの為の自転車を押しながら言い返す。
「俺より葵の方が凄くない?」
「私が? 私のどこが?」
陽太と自転車を挟むようにして歩く葵が聞き返した。
「だって・・・ 学校に行けなくなるくらいの交通事故に遭ったんだよね? 森下がそんな風なこと言ってた」
少し俯いた葵は、困ったような顔をした。
「・・・こっち」
葵が指差したのは、児童公園と言うには大きすぎる公園だ。ジャングルジムや滑り台などの子供向け遊具は設置されておらず、緑豊かな敷地内の真ん中に大きな芝生のエリアが有って、それを取り巻くように軟質舗装の施された歩道が走っている。朝夕にはジョギングで汗を流す人や、陽太たちの通う高校の運動部が、ここで走り込みを行っていたりする。
何も言わず先を歩く葵の背中を追うようにして公園に足を踏み入れた陽太は、芝生の手前で右に折れる為に、軽く自転車のブレーキを掛けた。その時だ、軋んだブレーキから甲高い金属音が立ったのは。
キキッ・・・。
その音を聞いた途端、陽太の頭の中に怒涛のように記憶が溢れ出してきた。まるで自転車のブレーキ音が、全ての記憶を開放する秘密の鍵であったかのように。そう、この公園は、隣接する市立図書館への近道として、昔、よく横断した公園だ。そしてあの時も・・・。
(やっぱりマズいことを聞いちゃったかな?)
葵は歩道沿いに設置されたベンチに腰掛けると、陽太にも座るようにと促した。自転車のスタンドを立て、彼女の隣に腰を下ろす陽太。その時の陽太の頭の中では、あの日のことがありありと蘇っていた。
─ あの時の自転車のブレーキ音。
─ そして自転車に乗って走り去る女の子の後姿。
─ その後に聞こえた自動車の急ブレーキの音と、「バンッ」という衝撃音。
─ それから人混みの間から垣間見た、道路に横たわる女の子。
自転車のブレーキ音がトリガーとなり、それらあやふやな記憶の全てが、たった今一本の縦糸で紡ぎ合わされた瞬間だった。
(あの時の女の子は、今、目の前に居る葵だ!)
頭から血を流して倒れていたのは、紛れもない葵だったのだ。どうして今まで気付かなかったのだろう? 今にして思えば、あの女の子の面影はしっかりと、今の葵の顔に息衝いているじゃないか。
と同時に、葵があんな大怪我を負っていたことを知り、今更ながら陽太は、いたたまれない想いで彼女の顔を見つめるのだった。
「私、あそこで事故に遭ったんだ」そう言って葵は図書館の方を指差した。
陽太はただ「うん」と頷いた。「知ってる」とか「やっぱり」という言葉は出てこなかった。「頭からの出血に、我が身を浸して倒れていた君を僕は見た」などとは、決して言えなかった。
「その後・・・ って言っても私には記憶は無いんだけどね? 私、植物状態みたいな感じになっちゃって・・・」
「し、植物状態だって!?」
「うん。そのまま二年間、ずっと意識が無かったの」
「二年間!?」
それは途方も無い年月だ。そんなに長い間、意識を失い続けるって、いったいどういう感じなのだろう? 勿論、意識の無い当人にこそ判る筈の無いことなのだが、そんな過去を全く感じさせない彼女の朗らかさが、かえって痛々しく感じられた。
「でも今年の初め頃、奇跡的に意識が戻って・・・」
いや、大変だったのは意識を失っている時ではない。意識を取り戻した後、いったい彼女はどうやって復帰を果たしたのだ? 彼女が失った二年間は、普通の人間が想像し得ないくらいに重いはずだ。それを取り戻すのに、いったい彼女はどれだけの努力をしたと言うのだろう?
「でも勉強は、みんなから遅れちゃってるでしょ? だから体力が回復して退院するまでのリハビリ期間中は、結構、真面目に勉強したんだよ。本来の学年に戻れるようにって」
陽太は心の底から、葵を凄いと思った。自分には到底、真似なんか出来ない。
「やっぱり凄いよ、葵は。そんなに苦労したなんて、おくびにも出さないけど」
「別に苦労なんてしてないよ。チョッと頑張っただけ」
「それが凄いって言ってるんだよ」
「だって、頑張ったおかげでみんなと同じ学年に戻れて、こうしてまた陽太と一緒になれたんだもん。全然平気」
「またって?」
「あれぇ~? 私のこと覚えてないの、陽太? 中一の時、隣のクラスに居たでしょ。こんな可愛い女の子を忘れたなんて言わせないからね」
「あははは、勿論、覚えてるよ。当たり前じゃん」
こういうのを罪の無い嘘というのだろう。確かにあの当時の陽太は、葵のことを詳しく把握していたわけではなかったが、なんとなく気になる女の子としては認識していたのだから。人間関係を潤滑にするための、少しばかりの脚色は許されるべきだと陽太は思う。
「本当かなぁ?」疑いの目を向ける葵。
「本当だって! ほら、いつもあの図書館で勉強してただろ? 俺もよく行ってたからさ」
「わぁ! 本当に私のこと知ってたんだ!? 嬉しいっ!」
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