第二章:山崎 誠

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3  そんな葵の退院の日は、直ぐにやって来た。  「葵ちゃんが居なくなると寂しくなるわねぇ・・・」  ハッピーターンの袋を抱きしめながら、森田のおばちゃんはシンミリだ。四人部屋を二人で分け合って、気心も知れた彼女が先に退院してしまうのは、なんとも言えず寂しい限りだろう。  「嫌だ、おばちゃん。泣くのは変だよ。これからも定期的に検査に来るから、その時は顔出すって」  「うん・・・」  葵がいくら励ましても、おばちゃんはこの世の終わりのような顔を崩さない。  「でも、おばちゃんも早く退院しなきゃダメだよ。ご家族が待ってるんだから」  「うん・・・ うん・・・」  鼻水が垂れて汚い顔のまま頷く森田のおばちゃん。  「もし上手く高校に編入出来たら、制服着た写真、LINEで送るからね。楽しみに待っててね」  「うん・・・ グスッ・・・」  「もう退院しちまうのかい、葵ちゃん?」  リハビリ室では、葵退院の噂を聞きつけた偏屈爺さんが不貞腐れていた。  「うん。横田のお爺ちゃんもリハビリ頑張ってね。看護師さんの言うこと、よく聞いて」  「ふん。あいつらの言うことなんか当てになるもんか。もうリハビリなんてどうだっていいわい」  相変わらずの判らんチン(・・・・・)振りである。  「そんなこと言わないの。みんなお爺ちゃんのこと心配してるんだから」  「こんな老いぼれ、とっとと死ねばいいのに位にしか思っておらんわ。あぁ、わしはもう死ぬんじゃ。この病院から出られずに死ぬんじゃ・・・ もう、わしのことなんか放っといてくれ」  人間、歳をとると子供のようになるというのは本当らしい。そんな爺さんにすら笑顔を絶やさない葵だが、時にはピシャリと言ってやらねばならない時がある。これでは、どちらが人生の先輩なんだか判ったものではない。  「ダメよ、変なこと考えちゃ。そんな風に言うお爺ちゃんなんて、葵、嫌いになっちゃうんだから」  「はい・・・ ごめんなさい・・・」  そして山崎だ。二年の長きに渡り、彼女をケアし続けた山崎と病院スタッフが用意した花束を貰った葵は、病院の正面玄関前で「わぁ!」と感嘆の声を上げた。  「皆さん、長い間お世話になりました」  「葵ちゃん、おめでとう!」「おめでとう!」花束を抱えて頭を下げる葵に、看護師たちから声が掛かる。  「有難うございます!」  そして山崎が若干の躊躇いを隠しながら、少しぎこちなく言うのだった。  「わ、渡部さん・・・ おめでとう。よく頑張りましたね」  「はい! これも皆、先生や看護師さんたちのお蔭です! 本当に有難うございました!」  そう言ってもう一度頭を避ける葵。そんな彼女に、山崎が慌てて付け加える。  「もし・・・ もし、体調に気になることが有ったら、いつでも病院に来て下さいね。どんな些細なことでも・・・」  「はい、分かりました!」  「約束ですよ」  この念押しはちょっと不自然であったが、退院のお祝いムードに飲み込まれ、それに気付いた者は居ないようだった。  「はい! 約束します」葵はもう一度大きな声を上げた。「皆さん、長い間、本当に本当にお世話になりました! 有難うございました」  そして深々と頭を下げる葵に、看護師たちの拍手と歓声が降り注がれた。ただ山崎だけは、パチパチと拍手をしながらも複雑な表情を崩すことは無かった。  こうして彼女は、迎えに来た母と連れ立って、元気に ──まだ少し体重は少なめだったが── 自分の足で歩いて病院を去って行ったのだった。病院スタッフに見送られながら。リハビリルームで共に過ごした患者たちに惜しまれながら。そして病棟で彼女の明るさに勇気を貰った者たちが窓から振る手に、元気よく手を振り返しながら。  昏睡していた期間も合わせれば、二年以上の長きにわたって堅牢な外壁の如く、葵を外敵から守ってくれていた病院に別れを告げ、彼女は大きな一歩を踏み出したのだった。事故により失った空白を取り戻す日常へと ──それは新たな戦いの日常なのかもしれないが── 戻っていったのだった。  「みんなーーーーっ! 元気でねーーーーっ!」  葵が去った後の病院内には、灯が消えたような静寂が音も無く舞い降りて来た。
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