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自分の席に戻り、目の前のパソコンを起動させる。入ってきていたメールの多さにややうんざりしながらもそれを一つずつ片づけていると、お疲れ様です、と声が掛かり、佳史は顔を上げた。そこにいたのは知聖だった。分厚いファイルを抱えているところを見ると、今日もみっちり色々な知識を詰め込まれたのだろう。
「ちさ……室木くん。今日の研修は終わりか?」
「はい。青野課長は残業ですか?」
ちらりと自分の腕時計を確認する。定時の五分前だった。とてもこのまま残業という気分ではない。
「いや……今日は定時で上がろうかな」
このまま仕事をしてもとても効率がいいとは言えない。ならば今日はとことんまで落ち込んで、明日しっかりやった方がいい。
「だったら夕飯ご一緒しませんか?」
「夕飯? うん、まあ、そうだな。いいよ」
少し待ってて、と佳史が返すと、知聖は嬉しそうに頷いてから、自分の席へと戻って行った。
「え? 改築工事?」
会社近くの居酒屋、テーブルを挟んだ向かい側に座る知聖の言葉を、佳史は首を傾げながら繰り返した。
知聖がそれに頷く。
「そう。半年間だって」
知聖はそう言うとため息をついた。
「来月からか……まあ確かにあの独身寮、俺も住んでたくらいだから古いのは知ってたけど」
「でも、僕にとっては住んで一か月の家なんだけど」
知聖はテーブルの上に置きっぱなしにしていた紙を手に取った。
それは数日前に知聖の家のポストに投函されていたもので『改築工事のお知らせ』と書かれている。
どうやら独身寮を大規模で改修するようで、そのため半年間引っ越しを余儀なくされるらしい。
確かに半年間とはいえ、最近引っ越して来たばかりの知聖にとってはため息の出る話だろう。
「家賃の半分は補償されるんだろ?」
「そうだけど……あの寮、何人住んでると思う? もうこの辺のめぼしいアパートは契約済みだよ」
一斉に追い出されるのだから無理もない。確か、二十部屋はあったはずだ。みな、考えることは同じだろう。通勤のことを考えるとあまり遠くには引っ越したくない。
「ホテル暮らしって訳にもいかないだろうし……うちはワンルームだしな。知聖のプライベートがなくなるな」
どこかないだろうか、と考えながらビールジョッキを傾けると、視線に気づき、佳史が目の前を見やる。目の合った知聖が、口を開いた。
「佳史さんち、置いてくれるの?」
「え、いや……だから、うちはワンルームだから……」
話を聞いていたのかと、佳史が繰り返すが、知聖は、平気だよ、と笑った。
「僕、高校と大学は寮生活だった! 他人と暮すの慣れてるよ」
「そうだったか……じゃあ、うち来るか?」
たった半年だし、かつては義理の弟でもあったのだ。兄弟で暮らすようなものだろうと、簡単に考えて佳史はそう聞いた。
それに知聖が華やいだ表情を向ける。
「いいの? 佳史さん。佳史さんのプライベートもなくなるよ?」
「俺は別に……家なんて風呂入って寝るだけのところだから」
今は訪ねて来る恋人もいない。色々あった趣味も一緒に行っていた人と離れてしまっては行く気にもならない。
生活の中に一人誰かが増えたところで邪魔にはならない気がした。
「じゃあ……甘えようかな」
「たった半年だしな。遠慮せずおいで」
こちらを見つめる知聖に佳史が笑顔で頷くと、知聖も同じように微笑んだ。
「ありがとう、佳史さん」
知聖の言葉に佳史はもう一度頷きながら、もう牧瀬がうちに来ることはないのだ、と再確認したようでどこか寂しく感じていた。
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