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それは、ある日の午後だった。
仕事が一段落した佳史のスマホに一課の課長である原田から珍しく電話が来た。仕事の話なら会社の電話を使うからおそらく私用だろうと判断してその着信を取る。
「お前が電話かけて来るなんて珍しいな」
佳史は言いながら席を立ち、三課のオフィスを出た。原田は営業一課の課長で佳史の同期だ。ライバルであり、ケンカ友達であり、最近は牧瀬との仲を知る数少ない理解者でもある。何か相談があるなら聞いてやらないでもないと、佳史は廊下の壁にもたれた。
『今からミーティングルーム来れるか?』
「ミーティングルーム? 行けるけど……何だよ?」
『とりあえず来い』
原田はそれだけ言うと電話を切った。佳史が怪訝な顔で通話の切れたスマホを見つめる。
「なんだよ、一方的に……」
これは直接言ってやらなきゃ、と佳史は廊下を歩きだした。
ミーティングルームは主に営業会議で使う部屋で、一課のオフィスの隣に位置し、中はパーテーションで区切られた三つの小さな会議スペースになっている。佳史がミーティングルームのドアを開けると、すぐに腕を引かれひとつの会議スペースへと連れ込まれた。手を引かれ、パーテーションの陰に隠れるようにしゃがみ込む。
「ちょっ、原……」
「しっ! 静かにしろ」
同じようにしゃがみこんだ原田に小声で言われ、佳史が黙る。それから親指でパーテーションの向こうを指さした。佳史は首を傾げつつ、耳を澄ます。
「あの、ご用って何でしょうか? 先日の商談の件でしたら、もう少し詳しい資料を作成してから伺うつもりですので……」
その声は牧瀬のものだった。佳史が首を傾げ原田を見やると、原田はスマホに指を滑らせてから画面をこちらに向けた。
『取引先の担当が突然牧瀬に話があるって乗り込んできた』
そこにはそう書いてあった。佳史がスマホを取り、そこに文字を打つ。
『仕事じゃなさそうだな』
そのままスマホを返すと原田が頷いた。それからまた画面に文字を打つ。
『どうやら牧瀬に気があるらしい』
そう書かれた画面を読んだ時、パーテーションの向こうから女性の声が聞こえた。
「……私、牧瀬くんの子を妊娠したんです」
その言葉に佳史がスマホを手からすべり落とした。慌てて原田がそれを受け止める。
佳史はじっとパーテーションを見つめた。本当は、それはどういうことだ、と出ていきたいところだが、相手の彼女が取引先と聞いていては、そうも出来ない。
牧瀬に中年男と出来ている、なんてレッテルは貼って欲しくない。
「え……? いやいや、私と宮永さんはそういう関係ではないですよね」
牧瀬の慌てた声が聞こえる。その声に女性の声が重なった。
「覚えてなくても仕方ないかもしれません。牧瀬くん、酔ってたから……」
彼女の言葉が佳史に刺さる。
酔って記憶をなくして、女を抱いたということなのか。牧瀬だって男だ。理性が飛んで、そんなことになる可能性だって、なくはない。
「いや、そんなことはあり得ないです」
「見て、これがエコー写真……今、三か月に入るところで……計算したら、牧瀬くんと一緒に飲んだ日の子なんです」
女性の言葉を聞いてから、佳史はふらりと立ち上がり歩き出した。原田がそれを止める。
その顔が、いいのか、と訴えている。佳史はそれにひとつ頷いてからミーティングルームを出た。
いつか、こんな日が来るのではないかと、心の隅では思っていた。やっぱり女がいいから、と牧瀬が離れていくことも、常に考えてはいた。けれど、こんな形でその時が来るなんて、予想外だ。
「青野課長! どうでした?」
三課のドアを開けた瞬間、目の前にいた数人の三課の女子社員が佳史を取り囲む。驚いた佳史が、え、と視線を泳がせた。
「え、じゃなくて。牧瀬さんに会いに来たっていう取引先の担当、何の用事でしたか? 今、その件で行ったんですよね?」
課長と牧瀬さん仲いいから、と言われ佳史はため息を吐いた。
「……耳が早いな」
「受付の子から聞きました。原田課長が応対したのに、牧瀬さんじゃなきゃダメって言ったって……で、何の話でした?」
さすが、『ラッキー製菓の王子様』の異名をとるだけのことはある。女子社員としては、王子が取られるのではと心配なのだろう。確かに牧瀬が誰かのものになってしまったら、女子社員の士気はだだ下がりだろう。
「……さあ……詳しくは……」
言えなかった。
牧瀬が酔って抱いた女を妊娠させたなんて、佳史だってまだ信じられない。そのうち噂として広がるとしても、自分が知らせることではないような気がした。
「あの人、前にも一度来てますよね? その時は商談通すから付き合ってって言ったって……」
「そんなことあったのか? 知らないな」
「あったんです! 牧瀬さんはすぐ突っぱねましたけど」
「ていうか、お前らもそんな裏取引は絶対乗らなくていいからな」
佳史が言うと、分かってますよ、と全員が頷く。
「三課は課長がそういうの大嫌いなの知ってますから」
接待も一人ではお断りしてます、と女子社員が微笑む。それに佳史が頷いた。
三課の社員は女子社員も含め優秀だ。それぞれの交渉力だけで仕事を取ってこれると信じているので、不要な接待はさせていない。特に女子社員には注意を払い、接待は男性社員と行かせるようにしている。それで仕事が取れなかったとしてもそれでいいと佳史は考えている。
だから、他所の課に言わせると甘いらしいのだが、このやり方を変えるつもりはなかった。大事な戦力をそんなふうに使いたくはない。
「……とにかく、牧瀬のことは心配ないから、仕事戻れ。全く、こんな待ち構えて……それとも俺に怒鳴られたくて待ってたのか?」
佳史がすっと目元を眇めると、女子社員は、仕事戻りまーす、と各自のデスクに戻って行った。
「……ったく……バカ牧瀬」
佳史は長いため息を吐いて、歩き出した。
先のことは、何も考えられなかった。
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