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原田が自分を食事に誘うなんて滅多にない。それだけ自分は弱って見えたということだろう。これでは仕事にも影響が出てしまう。一応長のつく役職なわけだから、しっかりしなくてはいけない。
「よし、もうひと頑張りするか」
佳史がそう呟いて気合いを入れた、その時だった。
突然誰かに腕を引かれ、そのまま引っ張られる。驚いて声も出ないまま引きずり込まれたそこは、今は滅多に使われない資料室だった。
「やっと会えましたね」
暗い資料室に目を凝らすと、目の前には長身のスーツを着た誰かが立っていた。顔を上げた瞬間、佳史が驚く。
「……牧瀬……」
「佳史さん、着拒しないでください。SNSもメッセージアプリも全部ブロックされてるし、家に行っても居ないし……ちゃんと話しましょう」
牧瀬がぐっと佳史の腕を握る。佳史はそれを振り払い、そっぽを向いた。今目を合わせていたら抱きついてしまいそうだった。離れたくないと、縋ってしまう自分が簡単に想像できるから、佳史はあえて腕を組み、資料の入った棚に背を預けた。
「話って……今更することなんかないだろ」
「まずは、別れるって言葉、撤回してください。おれは、佳史さんと別れるつもりはないです」
「それ、前も話しただろ。そういうわけにはいかない」
自分の足元を見つめ、佳史がそう答えた。牧瀬の顔は見れない。見たら、泣いてしまいそうだった。こうして声を聞いている今でさえ、視界は歪んでいる。
「だから……」
「もういい! 結婚祝いも出産祝いも誰よりも多くくれてやる! なんだったら結婚式のスピーチもしてやるよ! だから、もう……」
――俺に構わないでくれ。
そう言いたかった。けれど、言いきらぬうちに佳史の体は牧瀬の逞しい腕に包み込まれていた。
「離せ、ばか!」
「……佳史さんが泣き止んだら離します」
「泣いてなんか……」
佳史がそう言うと、頬に雫が転がった。佳史は慌ててそれを拭い、牧瀬を引きはがす。
「そんな、ありもしない無茶苦茶な事言って泣かないでください……おれは、そんなもの欲しくない。おれが欲しいのは佳史さんだけなんです。何度言ったら、伝わりますか? 伝わるまで言います、おれ」
「まき、せ……」
牧瀬がこちらに手を伸ばす。その顔を見上げると、どこか寂しそうで、けれどとても優しい表情だった。
「佳史さん」
もう一度佳史を抱きしめようとした牧瀬から逃れるように佳史は数歩下がった。
「もう、放っておけ。俺に構うな。お前は……お前の幸せだけを考えればいい」
佳史はそう言うと資料室のドアを開け、廊下を走った。階段室へ飛び込み、そこで息を整える。
「完璧に逃げてたつもりだったのに……」
連絡手段を全て絶ち、帰宅時間を遅くして牧瀬と会わないようにしていた。家に来られたら一晩中でも外で待つかもと思っていたが、牧瀬も忙しいようだ。それはしなかったらしい。
やっと会えたと言った牧瀬の声は、少し震えていて、そこに喜びが見えた。それが嬉しくて、同時に切なかった。
佳史は一度自分の両手で自身を抱きしめてから大きく息をした。
「思い出すな、もう……」
あの腕も、あの瞳も、あの声も、もう自分のものではない。
佳史はそう自分に言い聞かせ、オフィスへと戻った。
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