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その翌日、たっぷり残業をしてへとへとになって帰宅した佳史が見たのは、自宅ドアの前に佇む牧瀬の姿だった。
スーツのよく似合う長身をドアに預け、長い指でスマホを触っている。さらさらと落ちる前髪に隠れた横顔は、シルエットだけで形がいいことが分かる。それだけでもこちらの胸がきゅっと切なくなるほど絵になっていた。
昨日、もうこの部屋を訪ねて来る人はいないと思ったばかりなのに、こんなタイミングで牧瀬が訪ねて来るなんて、どんな嫌がらせだろう。
近づく佳史に気づいた牧瀬が顔を上げる。こちらを見つけ、情けない笑顔を向けた。
「佳史さん」
「……何しに来た? もうここに用はないだろ」
佳史は牧瀬の横に立ち、いつも通りに鍵を開ける。ドアを開け、中に入りドアを閉めようとすると、牧瀬がそれを止めた。
「話、させてください」
「話なんかない。何度も言ってるだろ。帰れよ」
佳史がドアノブを引いてドアを閉めようとするが、牧瀬に敵うはずはなく、あっさりとドアは大きく開く。その瞬間、牧瀬は佳史を抱きしめ、玄関の壁に佳史を追い込んだ。
大きな音を立て、ドアが閉まる。
暗くなった玄関で、佳史はただ牧瀬の鼓動を聞いていた。少し速いそのリズムに佳史の鼓動も速くなる。
「離せ、牧瀬」
「別れるって言葉、撤回してくれたら離します」
「……撤回なんかできるわけないだろ」
牧瀬は自分に言葉の撤回をさせてどうしようというのか。いくら撤回したところで、何も変わらない。ただ、こちらが牧瀬から離れられなくて辛くなるだけだ。
「嫌なんです。おれは、佳史さんと別れたくない」
牧瀬はそう言うと、強引に佳史の顔を手のひらで包み込み唇を合わせた。突然のことに抵抗できず、そのままキスをされる。深いそのキスに溺れそうで、佳史は両手で牧瀬の背中を叩いた。何度か強く叩いて、ようやく牧瀬がキスから解放する。
「……なに、すんだよ……」
牧瀬を鋭く見上げ、佳史が低い声で告げる。そんな佳史を見下ろす牧瀬の顔は情けなく歪んでいた。
「愛してるんです、佳史さん」
まっすぐに心に届くその言葉に、佳史の胸は痛む。
「……そんなのは、分かってる」
痛いほどに感じている。愛されているというその感覚はくすぐったくてでも嬉しくて、そして何より強くなれる。牧瀬のためなら頑張れる、牧瀬が居るから何でもできる――それは何にも代えがたい感覚だった。
「分かってるなら……」
「分かってたって、どうしようもないこともあるだろ!」
佳史が牧瀬を睨んで叫ぶ。牧瀬はそんな佳史に一瞬驚いた顔を向けたがすぐに真剣な目を向ける。
「おれにとって、一生傍に居たい人は佳史さんだけです。それが叶わないっていうなら……おれの一生はここで終わりです」
「……なんだよ、脅しかよ……」
一生は終わり、なんて大袈裟な言葉だが、牧瀬の目は本気だった。本気で、そんなことを言っているのだ。自分と居られないのなら死ぬ、と。
「佳史さんが分かってくれないから!」
佳史の両肩を強く掴んだ牧瀬が珍しく声を荒げる。泣きそうなその顔を見つめていると、また唇が開いた。
「おれの気持ち、分かってくれないから……おれが好きなのは佳史さんだけなんです。佳史さんと居られるなら、そこが地獄だっていい」
なんて、情熱的な言葉なのだろうと思った。このまま、俺もだよ、と牧瀬を抱きしめてやりたい。きっと牧瀬ほど若くて、何も知らない自分ならそうしていただろう。でもそれは出来ず、佳史はただ拳を握りしめた。
「……帰ってくれ、牧瀬」
牧瀬の顔を見ずに佳史は短く告げた。牧瀬の両手に力が入る。痛いくらい強く掴まれているが、それは佳史にとって嬉しい痛みだ。こんなに乞われているのだと思うと、それだけで泣きそうになる。それを堪え、佳史はゆっくりと息を吸った。
それからまっすぐに牧瀬を見つめ、穏やかに口を開いた。
「俺もお前が好きだよ。俺だって一生お前だけでいい……でも、どんなにお互い好きでも仕方ないことがあるんだよ。牧瀬も大人ならわかるだろ。子供には両親が必要だ。大人のワガママで、それを奪ったりしちゃだめなんだ」
佳史はそう言うと少し背伸びをして牧瀬にキスをした。ゆっくり離れると、小さく微笑む。
「じゃあな、牧瀬。愛してたよ」
佳史はそう言うと、玄関のドアを大きく開いた。その様子を呆然と見ていた牧瀬が子どものように首を振る。
「嫌です……!」
「ワガママ言うなよ。お前は、お前の出来ることをすればいい。俺は充分愛されたよ」
佳史は牧瀬の背中に腕を廻し、そのまま一度だけぎゅっと抱きしめると牧瀬の胸を両手で押した。牧瀬がたたらを踏みながら玄関の外に出る。
「幸せになれよ、牧瀬」
佳史はそれだけ言うと、泣きそうな顔の牧瀬を残しドアを閉めた。鍵を掛け、そのままそこにうずくまる。
「これでいい……こうじゃなきゃだめなんだ」
自分を慰めるように佳史は呟いた。これが正しい選択だ。牧瀬は結婚して父親になって、きっとすぐに昇進するだろう。仕事も家庭も順調で、幸せになる――それだけで、自分も充分幸せだ。牧瀬が幸せなら、それでいい。
そう思いながらも次第に視界は歪んでいき、玄関のたたきには雫がいくつも弾けていく。
いい歳して泣くなんて情けないと思いながらも、しばらくその涙を止めることは出来なかった。
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