前編

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前編

 黄昏時。ジリジリとセミの鳴く声がうるさく響いていた夏の終わりの神社で、まだ9歳だった僕は、とある願い事を神様に聞いてもらうことにした。  神社にあった枯れ果てた手水舎を通り過ぎて、お社の前に立ち、二礼、二拍手をして、手を合わせる。  そしてゆっくりと目を瞑ると、心の中で願いを込める。 「ーー。」  隣で僕と同じように願い事をしていた幼馴染みの楓は、僕に何のお願いをしたのか執拗に聞いてきた。  でも、僕は最後まで答えなかった。だって、答えたら叶わなくなっちゃうから。  あの夏の日。僕たちの運命は、僕のたった一つの願い事で、大きく変わることになった。 ***  今年もまた、ここに来てしまった。  黄昏時の空に、祭囃子の音、人々の雑踏。毎年楽しみにしていた地元の夏祭りが、今年もいよいよ始まったのだ。  毎年、夏の楽しみといえばこのお祭りだった。屋台の食べ物は美味しいし、珍しいくじ引きなんかもあって、いつも運試しをしていた。  いつもは、そうだった。  でも、今年はもう違う。私はもう、純粋にこのお祭りを楽しむことはできなくなった。  気づけば目から涙が溢れてくる。 今年は彼がいないのだ。  いつも必ず隣にいてくれた存在が、一緒にいるのが当たり前だった彼が、いない。  どこにもいない。  私は毎年のように彼と夏祭りに行く約束をしていた。  「樹、おまたせ」  二年前の夏祭り。そう呼びかけるとすぐに振り返ってくれた彼。  「楓!」  「待った?」と聞くと、「全然」と、笑顔で答えてくれた。  私たちは小学生からの幼馴染みで、母親同士仲が良かったから、よく一緒に遊びに出かけた。  性別はお互い違うけれど、中学、高校に行っても仲がいいのは変わらずで、私が落ち込んでいる時は、色々な相談に乗ってくれた。  私は彼のことが好きだった。でもそれは、恋愛感情とは少し違って、人間として彼を尊敬していたのだ。  大学生になってからは少し疎遠になったけれど、それでも、こうやって夏祭りには行こうと彼が誘ってくれたのだった。  しかし、悲劇は起こった。  去年の夏祭りの日、私は神社の鳥居のそばで彼を待っていた。慣れない浴衣なんかを着て、久しぶりに会える彼を思い浮かべながら少し、浮ついていた。  ところが、何十分経っても彼は現れなかった。  それでも私は待ち続けた。連絡もないけど、真面目な彼のことだから、何か遅れた理由があったのではないかと思ったのだ。  しかし、一向に彼は現れず、気がつけば1時間が経っていた。もう諦めて帰ろうかと思ったその時、私のスマホに着信音が鳴り始めた。  相手は母からだった。 「あのね楓、驚かないで聞いてちょうだい。さっき連絡があったんだけど、樹くんが……」 「……え?」  一瞬、思考が停止した。頭がその言葉を理解するのを拒んでいる。だって、それはあまりにも残酷で……。 「樹くんが、事故で亡くなったって」  周りの景色が一気に歪み始める。血の気が引いて、生きている心地がしなかった。 「嘘……」  すぐには信じられなかった。近くにいるのが当たり前だった彼が、いなくなったなんて。現実を受け入れるのに相当時間がかかった。  彼の通夜に参加して、初めて本当に彼はいないのだと痛感した。私は、大切な人を失ってしまったんだ……。  1年経った今でも、本当は受け入れられていないのかもしれない。またこのお祭りに来れば彼に会えるのではないかと、なんとなくそう感じてしまった。  会えるわけ、ないのに……。  この場所があまりに懐かしくて、まるで1年前にタイムスリップしたような気分だ。私は屋台を1人で周ることにした。  たこ焼きに、りんご飴、金魚すくい。どこも人で賑わっている。どの人を見ても、楽しそうに笑っている。なんだか、私だけこの場所から切り離されているみたいに。  私たちも数年前までは、同じように笑っていた。去年も、今年もそうであったらよかったのに。そう思わずにはいられなかった。  小学生の頃は、毎年金魚すくいに挑戦した。何匹取れたか競争になって、浴衣の袖を水浸しにしてまで夢中になったっけ。  中学生の頃は、射的なんかにも挑戦した。結局景品は取れなかったけど、樹が射的する姿はかっこよかったな。  高校生の時は、初めてくじ引きで大当たりを引いて、手を合わせて喜んだ。今でもあの時のことを覚えてる。  お祭りから帰る時は決まってりんご飴を1つづつ買って食べた。帰り道の、あの味が忘れられない。  いつの間にか社殿へと繋がる参道の1番端まで歩き終えていた。目からは涙が溢れそうになっていた。私は持っていたハンカチで目の端を拭うと、再び歩き出す。  今度は社殿の後ろへと周る。確か、社殿の後ろに珍しいくじ引きの屋台が置いてあったはずだ。  あった……。  くじ引きの屋台が今年も出ていた。今年も不思議なくじ引きをやっているみたいだ。くじ引きの屋台にも、小さな子から同年代の人たちまでたくさんの人で賑わっている。私はそこに混ざるわけでもなく、社殿の近くにある椅子へ腰掛け、屋台の様子を遠目で眺めた。  数年前の私たちは、確かにあそこにいたんだ……。  思い出す度、泣き出しそうになる。どうして彼は死んでしまったのか。どうして死ななければならなかったのか。彼がいなくなってから、何度も何度も浮かんだ疑問が、再び頭の中に浮かんでくる。  彼みたいな真面目な人が死ななければいけない理由が見つからない。  いっそ、私が彼の代わりだったらよかったのではないか?  そんな考えが浮かんだその時、私の目の前を不思議な物体が横切った。 「?」  驚いて顔を上げると、そこにいたのは黒い一羽の蝶だった。蝶は不思議な飛び方をしていた。なぜか同じ場所を行ったり来たりしている。私は思わず立ち上がって、蝶を眺めた。  蝶はゆっくりと社殿のさらに裏側へと飛んでいく。なぜだかその動きが気になって、私は蝶を追うことにした。  ゆらゆらと羽を羽ばたかせてゆっくり飛んでいく。その動きはまるでついて来いと言っているようだった。  気がつくと、神社を抜けて近くの森まで来ていた。普段は入らない森である。しかし、不思議と恐怖はない。蝶はどんどん森へ入って行く。辺りは次第に暗くなっていった。  十数分たった頃だろうか。蝶が途端に姿を消した。驚いて辺りを見回すが、蝶は見当たらない。しかし、蝶の代わりに美しい一筋の光が私の目の前を照らしていた。  草木をかき分けてその光の方へ向かうと、そこには見たことのない景色が広がっていた。
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