26、素顔 ④

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26、素顔 ④

午後からは約束の通り、普段のリシュアの行動をとらせ、シリアンは同行することにする。 館の奥の噴水を前にして、リシュアは衣をすべて脱ごうとした。 シリアンは慌ててその手を押さえた。 どうして止めるのかわからないという顔をされる。 昨夜危うくシリアンに襲われかけたとは思えない無防備さである。 羞恥心は蛮族と安寧国人では異なる。 水に入るのに衣服を着ている方が邪魔でむしろ命とりになるから服はいらないのだ。 「道理にかなっているでしょう?」 リシュアは言う。 「水路の出入りが可能かどうか疑っているのならシリアンさまも脱いでくださいね?」 結局、シリアンはリシュア専用の秘密の通路ではなく、陸路で出口まで案内させることになったのである。 陸路では15分はかかる距離である。 水路はほぼまっすぐで3分もかからないというが、そんな長い時間を息を止めていられるのだろうかと、どこかたばかれたという気持がぬぐい切れないシリアンであったが、リシュアの言葉を裏付けるように、出口の岩場には町の娘が着るような服が隠されていたのであった。 「本当にこの地下の隧道を利用していたのだな。お前が使えるということは他の者も使えるということだ」 シリアンは呆れたようにそう言うと、ダビドにすぐさますべて確認しふさいでおけと命じた。 こんな自分たちが把握していない秘密の通路など危険極まりない。 シリアンの命を狙う者たちに知れると厄介であり、それを今まで利用されていなかったのは幸運といえるものかもしれなかった。 シリアンは、あらかじめ用意させていた地味な衣服に着替える。 執事のしまっていた昔の服を借りたものである。 「で、それから?」 靴まで履き替えたシリアンを見て、養い子は観念したように見た。 ふんわりとまとめた髪を解き、きつく三つ編みに結び直している。 身体を飾る宝飾の類はすべて取り去った。 シリアンの養い子を思わせるものはすべておいていく。 目の前でただの草原出身の村娘に変わっていく。 「これから、あなたの護衛は帰ってもらう。庶民に厳めしい顔した護衛がぞろぞろついてこられたらおかしいでしょう?」 「それはなりません、シリアンさまの御身に何が起こるかわからないのに。それにこの娘は、、、」 ダビドはシリアンを一人で行かせることはできなかった。 娘が、町に潜む蛮族の反乱分子と連絡を取り合っているかもしれないという疑いも捨てきれないのだ。 「わたしの普段の様子を知りたいのなら、帰らせて頂戴!」 その顔からシリアンが見知っている完璧な笑顔の仮面がそぎ落とされていた。 灰色の、色素のかけた淡い目が、シリアンをまっすぐ覗き込む。 そんな目の色をしていたか?と思う間に、手が伸びてシリアンの櫛の入り整えられた頭をぐちゃぐちゃとかき回した。 「娘!何をっ」 驚いたシリアン以上にダビドが仰天し、引き離そうとするがその時にはもうリシュアは満足している。 「これで、だれもお高い行政長官さまだとは思わないでしょう」 町の生粋の安寧国人ではあるが服装がダサい若者と、蛮族出身の娘という変装である。 そして、昼下がり。 シリアンとリシュアは町にでることになったのである。 ふたりで訪れた町は、町全体がそわそわと落ち着かない様子である。 男たちが机を出し道路にテントを張り、食材を運び、女たちはその食材を刻んだり、花を飾ったり、その準備で忙しい。 「今夜から夏祭りが始まるから準備も大詰めなのよ。夏の祭りは暑気や邪を払う祭りで、かつて疫病に苦しんだ時に一人の戦士が疫病ごと敵を退けたことにちなんでいる」 リシュアは説明するが、夏の祓いの祭りの由来や日程を知らないシリアンではない。 しかしながら、町の中心部を囃子ながら練り歩く大仰な本祭りを高みの見物をすることはあっても、下町の庶民たちの祭りの準備の様子など見たこともないシリアンである。 午後の勝負にブライアンがこの娘とデートにと望んだのは、この祭りに一緒にいくことを指していた。 結果的に、勝負に勝利したシリアンが、ブライアンの代わりにリシュアと祭りデートしていることになるのか?とシリアンは顔にかかる髪をかき上げ思う。 「なんだいリシュー!今日は男と一緒じゃないか!デートかい?」 リシュアに気が付いた町の若者から野卑た声がかかる。 「そんなはずないじゃない!彼はお世話になっている人のところの下男よ!どうしてもついてきたいっていうからしょうがなく連れているだけなんだから!」 遠慮なしにリシュアは叫び返した。 「へえ?下男?そう言えばイケてない格好だもんな」 声を掛けた薄い髪色の若者は、じろりとシリアンを眺めると納得している。 その彼に、食材を切っていたテントの娘から、油売ってないで仕事してよ!可愛い子を見るといつも仕事がそっちのけになるんだから!と小言を受けている。 娘は腹が大きく膨らんでいる。 出産も間近なようである。 「エリック、ダイアー!仲良くしてね。胎教に悪いわ!また夜に時間があれば屋台に寄るから!」 あははっと笑ってリシュアは慣れた様子で豪快に返している。 方々からリシュアは声をかけられていて、娘は軽快に挨拶を返し、たわいもない会話を楽しんでいた。 なんの思惑も、媚も含まれていない会話。 リシュアが話す者たちは圧倒的に、生粋の安寧国人たちではない。 草原出身を示す髪色や目色が薄い者も多いが、中には肌色が濃かったり、身体の骨格が大きすぎたり、また小さかったり。 安寧国が版図を広げ、支配下に置いた国から連れてきた少数民族の者たちも混ざっている。 彼らと話すリシュアの顔からシリアンが知る完璧な笑顔はもうない。 「ほらまだ早いけど、もっていきな!試し焼きのクレープだよ!」 ほっかむりを巻いた皺だらけの笑顔の女に、リシュアとシリアンはそれぞれ何かを押し付けられた。 薄く伸ばして焼いたパン生地にフルーツとクリームを一杯に入れて巻いたものだった。 大きな葉にまいただけの、むき出しであつあつのそれをシリアンは呆然と眺めた。 「ごめんね。シリアンさまを下男にしてしまって。皆仲いいでしょう?だからここに毎日でもきたくなるんだけど。それからこれはこうやって食べるのよ」 大口をあけてリシュアは手にしたクレープにぱくついた。 噛み切れず唇の端からあふれ出した真白なクリームを舌を伸ばしてペロリとなめとっている。 そんな作法はあり得ない。 「タダでもらったんだから食べて?」 「タダ、、、」 安寧国皇子である自分は施しをすることはあっても施されることはないと、毅然とした態度を取り口を開いたシリアンに、手にしていたクレープが問答無用に押し込まれた。 リシュアがぐいっと押したのだ。 目を白黒させるシリアンを、期待を込めてきらきらと青灰の目は輝いている。 「ほらおいしいでしょう?シリー?」 「シリー、、、」 クリームは甘くてフルーツも甘くてひんやりとしていて、その癖外側を包むパンは塩味で温かい。 ミスマッチしたカオスのおいしさというのか。 口中でそれは混ざり合い、ちょうど良い具合になる。 「、、、食べたことのない味わいだな。うまいといえる部類に入るのかも」 「そうでしょう?館で出されるような洗練されたものじゃないけど、あちこちの地方のものが一緒になって面白いんだから。それだけは、安寧国の良いところだといえるかもしれないわね。あとでイロイロ教えてあげる!」 リシュアはシリアンを完全に下男扱いをすることに決めたようである。 誰かに皇子だと見破られるかもしれないとの心配は、全くの杞憂に終わりそうだった。 それだけは安寧国の良いところというリシュアの含みのある言葉を、シリアンは聞き流した。 いちいちひっかかってもしょうがなかった。 大輪の花が開くように、リシュアは笑顔になる。 美しくてリシュアに吸い込まれるような気がした。 もっとどんな表情をするのか見てみたいな、とシリアンは思う。 はじめてシリアンが見た、完璧に装われた淑女ではない拾い子のありのままの素直な笑顔だった。
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