第1話 草原の巫女 1、皇の略奪 ①

1/1
39人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ

第1話 草原の巫女 1、皇の略奪 ①

細く引き伸ばされた「哀」を感じさせるその歌声の唱和は、風にのって馬上の(おう)の頬を冷たく刺す。 薄く引き伸ばした鈍色の金属を連ねる猩々緋の甲冑は、草原の中で異彩を放つ。 「馬が進みません!歌に気おされているようです!」 先陣を切る精鋭の部隊は、馬の足並みが乱れていた。 どこからともなく途切れることなく聞こえる美しい声は、中原の安寧国の人間にはただの哀愁を帯びた歌声に過ぎなくても、目に見えない気配を敏感に感じ取る能力に優れた人以外の生き物、彼らの足である馬には恐怖を感じさせる何かのようであった。 前方には目指す万年雪を抱く山麓の小さな村がある。 草原に面していて、草原の民と山の民とが混ざり合う、彼らの信仰に支えられた小さな村。 山間のどこかに、風の中に忍ばされたその歌声の主たちが歌い、馬の足をこれ以上近づくなと警告を伝える。 皇はなんの感情もわかず、平坦に村人の死刑宣告を言い放つ。 「村に火を放て。焼き尽くせ」 その号令と共に空に火の玉がいくつも弧を描き飛ぶ。 村の女たちの悲鳴と、男の怒声。 歌声はいっそう強く「怒」を帯びるが、燃え盛る熱と温風と、逃げ惑う混乱の前に切れ切れにちぎれた。 皇の兵たちは火に追い立てられた村人たちを、馬で蹴散らし槍でついた。 辺境の蛮族たちの命は、彼らの国の犬猫と同じぐらいでしかない。 捕らえても家畜の扱いでしかない。 皇の目的は、歌声の主たち。 こんな蛮族たちが住む、物資が乏しく辺鄙なところに住みながらも、彼女たちは特別だった。 非常に見目麗しく、その歌声は心を蕩けさせるという。 美しい彼女たちを宮廷で侍らせて歌わせてみたい、ということだけで皇はいともたやすく村を壊滅させる。 女たちは8名、精霊を祭る小さな祠にいた。 年長は70歳の巫女。 一番小さな巫女は15才。 幼きものでありながら、自分たちの中で最も素質のあるものと巫女は思う。 本人は全くそうは思ってもいないようだったが。 皇は、ずかずかと彼女たちの最後の砦に踏み入った。 そこは、ちいさな祠。 草原と山岳の境目にある神聖不可侵な聖地である。 女たちは見つけられた。 引きずりだされ、皇の足元に跪かされる。 皇に呪いの魔が歌を投げつけるも、皇には響かない。 なぜなら皇は、彼女たちと違う理の内に生きている。 彼女たちは自然に生きる。 はるかかなたの海の匂いを運ぶ風。 大地の奥底で振動する熱。 空を覆う天から、時折落とす恵の雫。 動物の命の営み。 草木の芽吹きやささやきなど、肌で心で直感で感じられるものを掬い上げ、彼女たちの命を生かし、構成する。 だが、この硬質な兜の奥から彼女たちを見下ろす皇は、熱を感じさせない硬質な目、歌を忘れた口、命の通わない金属で体を覆いつくす。 その大地に立ち天の恵みを恵として感じ感謝する、人としての生き方を捻じ曲げてしまっていた。 天と大地とでつながる巫女たち。 人の力で自然をねじ伏せる覇王。 彼らは異質で混ざり合わない存在だった。 だから、彼女たちの歌声は、皇に響かない。 呪いの言葉は彼らには発動しない。 受け取る側が、正しく理解できないのだ。 皇は女たちを眺める。 いずれも化粧気もなく衣装も素朴ではあるが、噂にたがわず見目麗しい女たちであった。 彼女たちが身を守るものは、もう声しかない。 だが、それは皇の前では、原始的な医療を兼ねる巫女である彼女たちを崇め奉る、蛮族の迷信、集団催眠の呪術の一種にすぎなかった。 信じる心が惑わせる。 初めからその力など存在しないのに、呪いも何もあるはずがないのだ。 兜の奥の、冷酷で残忍、そして家畜を品定めする目に見据えられた女たちに絶望が支配する。 この略奪者には自分たちの歌が全く効かないのだ。 そのような者たちが東から数年前からやってきていた。 彼らを退けるには武器がいる。 物理的に押し返す防御の槍や弓が。 だが、彼女たちを守るはずの村人は、既に壊滅させられている。 細く引くけむりに、肉の焼ける匂いがする。 人肉の焼ける匂いだった。 老いた巫女は低く地を這うようなうなり声をあげ、歌いだす。 それは皇ではなく互いに向けられた呪いの歌。 捕らえられ、恥ずかしめを受けるぐらいならば、緩やかに互いの心臓の動きを止めていく歌声。 心を凍らせる、冷たい歌声は、すべての臓腑を凍らせる。 巫女たちは蒼白になりゆらりゆらりと崩れ落ちていく。 その様子にあせったのは皇であった。 初めはまだ無駄なことをするのかと鼻でせせらわらったのだが、その魔が歌は彼女たち自身に向けたものである。 せっかく噂を聞きつけ、草原の民を幾百も蹴散らかし、彼女たちをさらいに来たのに、得られるのはこと切れた美しい(むくろ)なだけなどありえなかった。 欲しい物は強奪してでも手に入れてきた。 それが皇の生き方で、遂行できるだけの知力と財力と武力と、忠実な部下たちがいる。 「馬鹿野郎!女を生かして捕らえろ!ここまで来たかいがないではないか!」 女の口をふさげ!と指示するには手遅れだった。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!