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25、素顔 ③
意図したよりもかなり強く弓を放ってしまっていた。
リシュアの声に引きずられたのだ。
矢の勢いが強すぎだった。
的を大きく外してしまうように思われた。
みるからに大きく弧を描く矢の行き先を予測し、ああ、、ともう何度目かのため息が漏れる。
これでブライアンの勝利は確実となったと思われたのだ。
皇子の実力は大したことがない。
行政能力はあるが戦嫌いの戦下手。
猛々しいバーライト皇の息子のなかで一番の軟弱者の皇子と噂されるのはシリアンのことだ。
その引き締まった体は、ただ見せるためにだけ鍛えたものなのか。
彼の強さの権威は、彼を守るダビドやその騎士たちに辛うじて守られているのは確実だった。
守られる皇子だからそもそも個人の強さなど必要ではないのだ。
なんとなく失望の空気がその場を満たす。
しかしながら大多数の予想を裏切った。
その矢はいきなり現れた風の先陣に押し返されたのだ。
その風はリシュアの髪を乱しスカートを膨らませ、観客の間を走り抜けていく。
風が迫るのを読み解いていたのはリシュアだけ。
矢の勢いが急激にそがれた。
そして、あれよあれよという間に、放った時には予想もしなかったような弧を描き、ぱつんと的に刺さる。
突風が過ぎた後には、なぎのような静けさ。
ポイント10倍。
鏃の先の大きさしかない、ど真ん中だった。
勝利を手に掴んでいたはずのブライアンはビインと揺れるシリアンの矢羽根を呆然と見る。
シリアンの矢がど真ん中を射抜いた瞬間にブライアンの敗北が決まったのだった。
勝利から急転直下に敗北へ。
ブライアンはがくりと膝をついたのである。
これで終わったかと思われたシリアンの授業参戦は、他の男子生徒に囲まれて体術の競技に移っている。
会場の移動と共に、観客も移動する。
シリアンは汗をにじませ真剣な顔をし、油断なく隙を伺う。
その動きは敏捷で、身体は強靭。
叩き込まれた体術は若者には太刀打ちできない正確さと狙いどころのうまさがあった。
体術に自信のある生徒にもたやすく襟を掴ませない。
その真剣勝負に再びリシュアは息を飲み、釘付けになった。
さすがに5人続けて相手をした後には、学生からの挑戦をダビドに譲っている。
シリアンは伊達に6歳の年月を過ごしていない。
知略に優れたクルドの政を主導する文官としての面が前面に出されていはいたが、シリアンはそれだけではないのだ。
都での評判がどうであれ、武のバーライト皇の息子としての戦の場に出るための鍛錬も怠っていない。
戦える身体を作り上げてきたことを、リシュアは、そしてクルト学院の生徒たちは知る。
この日の午後は授業にならなかったのである。
授業が終わると、リシュアは迎えの馬車に乗る。
だが、今日の馬車にはシリアンも乗り込んでいる。
シリアンははす向かいに座るリシュアに視線を向けている。
ふたたび髪を整えたシリアンは、疲れた様子など見えなかった。
リシュアはシリアンが口を開くのを待った。
「弓も体術も俺に勝負を挑んできた男子生徒が、俺に勝ったらお前とデートしたいといっていたよ」
「、、、それも見事に返り討ちにされたので、ほっとしております」
リシュアは慎重に言う。
「お前はどうもすべて断ってきたようだな。だからこんな馬鹿げた暴挙に若者は出るんだ」
「学校が終われば家に帰って宿題や調べもの、刺繍などがありましたので」
シリアンはリシュアの言葉に片眉をあげた。
もう、リシュアが館を抜け出して自由に動き回っていることを知っているのだ。
リシュアはもぞりと居住まいをただす。
居心地が悪くてしょうがない。
「好きなヤツがいるのなら、配慮してやってもいいのだが、、、」
シリアンは恩情を見せた。
シリアンもリシュアの扱いをどうすべきか考えあぐねているのだ。
「配慮とは、嫁にやるということですか」
「そうともいうが、本当にただのデートということもある。だがお前は立場が難しい。ここまで育てた以上、人間扱いしない者にお前をやれない」
シリアンの漆黒の目によぎるかすかな苦悩。
だがそれはすぐに打ち消される。
「それにしても、お前とデートの許可をもらうための勝負や、卒業まで帰宅する時に同行する権利や、キスをさせて欲しいとか、なんとか。お前、そのお嬢様の仮面でだましすぎなのではないか?すっかり俺も騙されていた」
「早く帰りたくて、時間のむだなことはしたくなかっただけです」
「俺の許可なくてもキスぐらいするだろう?」
「好きでもないのにキスなどできません。そんなに暇ではありませんので」
シリアンの手が伸ばされリシュアのふんわりとまとめられた髪に触れた。
リシュアの唇に視線が落ちる。
昨晩のことを思っていることにリシュアは気が付いた。
あやうい触れ合いの記憶にドクンと心臓が飛び跳ねた。
「抜け出して娼館に行く時間はあるのにか?聞くと、娼館には週1回だそうじゃないか。その他にお前がしていたことを知りたい」
「娼館以外には町やら森やらで遊んでいただけです」
「たいしたことでなら、俺が一緒にいっても問題ないだろう?お前の秘密行動の全てを知りたいんだ。嫌だというのなら、本当にお前の身の振り方を考えなくてはならない。ブライアンはお前のことを好いているようだし、他の男たちも、もちろん学生だけでなくて候補にあがるかもしれない」
脅しである。
だが、ふっと面白げにシリアンの目元が緩む。
リシュアの助けがあったとはいえ、シリアンは全力で彼らの勝負を勝ち抜いたのだ。
「そもそも真剣勝負に勝った俺は、お前とのデート権、キス権、通学同行権などいろいろ勝ち得てしまったのだが。キスなんて5回はできる。お前が普段の抜け出した午後の行き場所に俺を連れて行かないというのなら、この場でキス権を使うこともできるが、、、」
それがたわごとでないことを示すために、指先がリシュアの唇と顎に触れた。
びりりと電撃のような熱さが流れ込む。
慌ててリシュアは食われないように唇を口の中に巻き込み身をそらした。
リシュアの色気のない反応にシリアンは目を丸くし、声をあげて笑う。
あまりに笑いすぎて涙までにじませている。
リシュアはむっとした。
キスをするのも、色気のない子供だと笑われるのもどちらも嫌である自分がいた。
ならどうしたらいいのかわからない。
キス権を行使しなくても、サラージュなら養父とキスぐらいしているはずである。
そしてそれ以上も。
シリアンに完全にからかわれている。
リシュアに女を見たのは闇夜に見間違えた娼館でのあの一瞬だけ。
リシュアの完全敗北であった。
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