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1.にゃんてことない商談
お題「猫のサラリーマン」
「ですから、お客さん、困ります。このお魚はもうすぐ旬でなくなってしまって、この先本当に高くなるんです。朝一で市場に出ないと買えなくなるはずです。だから、頼みます、ここは、この煮干しで、どうか」
一生懸命事情を説明し、相手になんとか理解してもらおうとする。しかし、お客さんは、僕の話を聞くどころか、つんとあちらを向いてしまっている。
「ほら、こちらもなかなか美味しいですよ。試してみましょうか。どれどれ」
安っぽいプラスチックの容器に入った煮干しを口に運ぼうとすると、ぱちん! と腕を叩かれる。「い、いてて、すみません」反射的にそう謝るけれど、その謝罪も、聞いてはくれない。
さすがの僕も、そろそろ我慢の限界だ。社会に出てはや数年、営業の仕事に身をささげるつもりで努力していたけれど、最近はもう馬力がない。頑張ろう、と踏ん張るのに、昔の数倍くらい力がいる気がする。
「こ、これ、欲しいんですか? あげます、あげますから、もう勘弁してください。ああ、なんてこった。ちょっとボーナスが出て、気分がよかったからって奮発したのが間違いだった」
一人暮らしを始めてから専ら独り言が増えた。やれやれ。この商談には、しばらく苦労しそうだ。
「不審者情報ですか」
「はい、今日の帰りの会で注意喚起をお願いします」
「はあ、わかりました。前聞いた露出狂のオヤジですか?」
「いえ、違います、違います。あれはもう捕まりましたよ。先生、聞いてらっしゃらなかったんですか。今回のはもっとやばいですよ」
「やばい? どんなものですか」
「猫なんです」
「は?」
「自分を猫だと思って、猫に話しかけては、道端で立ち往生する変態です」
「それは、まあ。どういうことなんですかね。最近はやりの、うつ病でもしたんではないですか。しかし、子どもに話しかけてきたりするわけではないんですよね?」
「煮干しが食いたいなあ、とか言ってね、猫を見る度追いかけて、話しかけるんです。気味悪いでしょう、たとえ自分が話しかけられていなかったとしても」
「まあ、なんと可愛らしい現実逃避の仕方ですね。猫を追っかけて、高所から落ちて死ぬ、みたいなことにならないといいんですけど」
「なんで、そんな他人事みたいに。子供がその瞬間を目撃したらどうするんです? 親御さんのあいだでも持ち切りのようですよ」
「はあ、そうですか。本人は、楽しいんですかねえ。僕も、猫になってみたいな」
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