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「タクシーで戻ったのか」
「……そうだよ」
ぶすりとした不満を帯びた声だった。おれは桐生を横切り、靴を脱いで、洗面所に足を運ぶ。
桐生はなにかいいたげな視線を送ってくるが、あえて気づかないフリをした。ムシだ。
「香水の匂いがする」
ぼそっと声をかけられて、その言葉にどきっとした。しまった。
まさか、桐生の恋人の兄と会っていたなんて口が裂けてもいえない。
「た、たんとうだよ。担当のタナカさん」
「タナカ?」
そんな奴いたか? と顔を近づけてくる。
田中さんはいた。結婚して退社し、地方に引っ越しているが。
「そうだよ、田中さん。おまえは犬か」
犬よりこわい。とは絶対に口にださない。
桐生はじりじりと近づいてくる。
「……その香水、いやだな。気に入らない」
まるで帰宅後に問い詰められ、浮気した夫みたいだ。
うさんくさそうな視線を無視して、居間にむかうと、夕食が所狭しと並んでいた。
サンマの焼き魚に、ごはん。ほうれん草のおひたしにはふわっと鰹節がのせられて、ナスとオクラの味噌汁が細く湯気をゆらしていた。
「す、すごい」
「……ずっと待っていたんだ」
振り返ると、怒ったような、あきれたような顔をされた。
さすがに、これはおれが悪い気がしてきた。
これじゃあ本当に浮気しているみたいじゃないか。いや、つき合ってない。
おれは黙って、畳の上に膝を折る。手を合わせ、いただきますとつぶやいて箸を持った。桐生もため息をついて、むかい側に座る。
「わるかったよ。用意してくれて、その、ありがとう」
「とにかく、どこで誰に会ったのかは教えて欲しい。またいなくなったら心配する。あとでスマホに追跡アプリをいれる」
はじめに口つけた味噌汁を吹き出そうになり、火傷しそうになった。慌てて桐生の顔を見るが、しれっと刺身を食べている。
「なんで、おれの足取りをそこまで追うんだよ……」
「犯人はまだ捕まっていないんだ。また刺されて、入院代が嵩むぞ」
たしかに……。
黙々と夕食を平らげていく桐生。おれは並んでいた、鮮やかな緑を放つきゅうりの漬物を噛んだ。
くやしいがおいしい。だが、シャリシャリとした歯触りに苦味が増す。
おれの懐が悲鳴をあげているのは事実だ。
入院費は限度額まで達し、その他の出費も加わって頭が痛い。かといって、スマホの画面にピンをたてられ、自分の位置情報を確認をされたら堪らない。
「犯人なんて、ただの通り魔だし、身体だってもう完治してる。それに出かけるときは連絡するから、安心しろよ」
「それなら、今日だれと会っていたのか話してくれ」
「………えっと。それは……その……」
「なぜいおうとしない? しゃべりたくない相手なのか?」
気まずい雰囲気に、胡瓜がボソボソと味気なく喉を駆け抜けるように胃に押し込まれる。
じっと見つめられて、不意に視線を外してしまった。お互い触れないように避けていた話題になってしまった。
「………とにかく、これ以上おれのプライベートに口をだしてくるな。おまえとは終わったんだから、言う必要はない」
「おまえが居なくなったのはおれのせいじゃないか。距離を置いていたのもそのせいだ。でも、やめた。兄から色々聞きだして、ずっと探して、なにが大事なのかわかった。皐月、ごめん」
桐生は箸を置き、深々とおれにむかって頭を下げた。
味噌汁の湯気がゆらゆらと2人の間に揺れ、おれは白い煙を縫うようにじっと下げた頭をみつめた。
距離を置いていた?
おれたちは、そういう関係じゃないだろう。
合わないピースが、何個もはみ出ように追いだされる。
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