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第1話
「は?」
まさかの言葉に、なさけない悲鳴がでた。
青天白日とはこのことか。
それでも耳元で囁く声はあまく、その言葉は残酷をきわめる。
その中で、ゆるやかなリズムで、ジャズが流れる。このぼろい喫茶店にはよく似合いそうだな、と思った自分を呪いたい。
いま、自分、倉本 皐月は三年付き合った年上の恋人、菫 蒼から別れを告げられた。
蒼は外科医という多忙なスケジュールの合間を縫って電話をかけてきてくれる。
だから、その日もなにも考えずに電話をとった。それが、わるかった。
「……うん、ごめん。ほかに好きなひとができたんだ。だから……。ごめん。皐月、別れて欲しい。君のことはとっても好きだった」
唐突だ。半分なにを聞かされているのかわからない。
蒼のことは好きだ。いまでも、このいっときすらも愛している。それなのに、浴びせられた言葉に声がでない。
すきなひとができた。ごめん。
その声だけは、はっきりとした意志を感じる。すでに好きな人ができたといわれ、許せなくともイエスという答えしかない。やめろといわれて、やめる人間なんていない。
グラスはびっしょりと水滴がついてある。ぬるくなったアイスコーヒーが目に入る。普段と変わらない優しい声で残酷なことを言うやつだなと思った。
「……その人とつき合うの?」
「そうなるかも知れないし、正直わからない」
蒼は困ったような声になった。
ああ、はやく切らないと。めんどくさいのか。めんどくさいだろうな、別れ話だから。そう考えて、たしかにすれ違いはあったと振り返る。つき合って三年も経つし、さらに一緒にも暮らしている。マンネリか。
いや、ちがう。蒼はいつも手術が立てこんで忙しそうだった。家を出て行くときだって、蒼はまだベッドで寝ていた。
ヨルもご無沙汰で、交わす言葉もすくなくなって、キスもなくなった。それでもすべてが普段通りで順調なのだと思い込んでいる自分がいた。
なにもかもうまくいっていると、先程まで思っていた自分の鈍感さにすくなからず、あきれてしまう。別れの兆候なんてたくさん落ちていたことに、気づこうともしていなかった。
「そう、わかったよ。別れる。いままでありがとう」
「……君は、物分かりがよすぎるよね。そのまま、生きていくの?」
自分から別れようといったくせに。すでに好きなやつがいるくせに。
よくそんな台詞をいうものだ。怒りたくとも怒れない。店の中はクーラーがガンガンとついているのに、自分だけが茹だるようにあつい。
「どうしようもないよ。もう好きな人がいるんだ。あきらめる。俺はすがらない」
すがったとしても、好きな奴がいるといわれたら結果はみえてる。
所詮、むだなのだ。
「君は縋るなんてことはしないと思ってた。そうやって恋愛を終わらせたつもりだとしても、君の中ではまだ終えてないんじゃないかな。……結局、僕が君にずっと縋っていただけなんだから」
「ああ、俺はそうかもしれない」
カチンときて、そう返した。
よくやったと親指を立てて、自分でほめたい。
その声で『愛してる』となんども耳元で囁いていて、真っ赤になっていた自分はもういない。
頭の中をちくちくと棘がさすように攻撃をしてくる。
それはもう終わってる。
終えられた。
結局、積み重ねたものを、砂の城のように崩された。おはようのキスもただいまのハグも全て嘘のように幻だった。
それだけだ。
「そうだね。そう、君はいつもそうだ」
「もう、用件はいいだろう。切るよ。さようなら」
そう口にして、電話を切り、電源を切った。
建前は格好よく。そして無愛想な別れ。
それも絞る声を押し出しただけのもの。大変になさけない。
振られたのは自分だ。
やさしかったし、文句もない。
あまえてくるし、おはようのキスもやわらかい。
その記憶を、また誰かに植えつけられる事実なんて考えたくない。
荷物、取りに行こう。
持っていた携帯をポケットに入れて、俺は蒼のマンションにむかった。
どうせ、蒼はこれから出勤でいない。こういうのは早いほうがいい。
どうせ、荷物は少ない。
荷物はまとめて、友人のところにでも送ろう。服とパソコンだけだ。寝る場所はどこか漫画喫茶でもどこでもよい。
どうせ、俺の恋愛なんてこんなもんだ。
笑ってしまう。
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