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第3話
指定された店は、酔客が賑わいをみせていた。鶏を焼いた匂いが漂って、グラスがぶつかる音がさざめき耳をうつ。
戸口に立つと、すぐに弘前 満がカウンターで手をひらひらとふる。
しっとりとした落ち着いた雰囲気が漂い、おばんざいが何品かカウンターに並べられていた。
そして弘前の隣に、もうひとり、奥にだれかが座っている。男だ。背がたかくて、こざっぱりとした服装をしている。
視線がかち合う。いやな予感がした。
桐生だ。
かつて別れたというか、いやいや、よく考えたらつき合ってもないやつ。
セフレ。そんな相手がそこにいた。
切れ長の目に、やや栗色の髪を後ろに撫でつけていた。紺色のポロシャツを着て、ビールを飲んでいる。
さいあく、か。
弘前と知り合いだったか……。
ひゅっとかすれた空気を呑みこんで、俺は歩をすすめた。
「弘前、ひさしぶりだな」
「そうだね。連絡はとっていたけど、何週間ぶりだろうね」
弘前はそう言いながら、隣の椅子をひいて座るよううながす。
「となりは?」
「ああ、僕の知り合いの知り合い」
「なんだよ、それ」
「へへ、ひみつ」
顔をあかくして、照れるのでまさかと思ってよけいな質問を投げてみる。
「つき合ってるとか」
「ちがうちがう。それはない」
首を横にふって、弘前はグラスに口をつけた。
俺は平静をよそおいながら、弘前を挟んだ形で並んで腰かけた。これだと顔を見なくてすむ。
塞ぎこんだ気持ちを発散しようときたのに、気分はすでに奈落の底にしずむ。すでに帰りたい。帰って寝たい。恋人と別れて、そのセフレと会わなければならないなんて拷問だ。
「あ、自己紹介からかな。二人ともはじめてだよね。こちらは桐生くん。桐生くん、同業の倉本。倉本 皐月っていうんだ。桐生くんは警察官で、いろいろと忙しそうでさ。今日はたまたま休みが重なって誘ったんだ」
「……へぇ」
目の前に置かれた冷えたおしぼりをひろげて、ぎこちなく笑う。桐生がじっとこちらを見ている。視線を感じるが、合わせたくもない。
「……新生活は落ち着いた?」
弘前は店主に何品か注文しながらつぶやく。よけいなことを聞くなよ、と祈った。
「うん、落ち着いた。大丈夫だ」
ぶっきらぼうに返して、すぐにきたビールを一気に乾す。咽喉が妬けるようなひさしぶりの感覚に眉根を寄せてしまう。
「……ち。ちょっとちょっと、ペース考えなきゃ」
やけ酒ではない。
くそみたいな別れから、酒は飲んでいない。俺はさらに日本酒をたのんだ。
「別にペースなんて考えてる。そういえばシェアしてる同居人とは上手くいってるのかよ…」
「え、ああ。うまくいってるよ。生意気なほど元気だし、毎日つき合わされてる」
げっそりした顔になった弘前は日本酒を飲んだ。横で桐生が笑った。
「弘前さんだって、振り回してると思いますけどね」
「ひどいなぁ。僕はいつも連れ回されてのに。そういえば桐生くんは、恋人の葉月さんに振り回されたりしてないの?」
弘前はケタケタと笑いながら、日本酒をまた飲んでいる。あっと思った。
「………まぁ、俺も振り回されてますね」
一瞬、こちらを見た。気がした。
なんだ、恋人できたのか。
よかった。
ほっとしたような、悲しいような気持ちでどこかで聞いた名前が頭にこびりついた。
「葉月さんは女のひと?」
「男だよ。詳しくいうと、蒼の弟」
「げ」
「げ、じゃないよ。どうしてまあ、別れたんだよ?」
弘前がまた日本酒を注ぐとぐびぐびと飲んだ。
ああ、そうだ。思い出した。
蒼がたまに話題に出していた。
「………振られたんだよ」
不意に蒼の会話がぽろぽろと思い出される。蒼の弟で、かわいくて、ちいさいとかなんとかいろいろと耳にタコができるほど惚気られた。
「蒼に?」
「そうだよ」
「なんで?」
「好きなやつができたんだよ。あいつはバイだし引く手あまたなんだろ」
「だってさ」
「………だってもないよ。浮気されたんだ。そんなやつ、どうでもいい。浮気する奴はクソだ。目の前から消えてくれて助かる」
目も合わせず、隣に出された酒をごくごくと吞んだ。結局、自分は何も成長していない。
ほかのやつを好きになるなら、はじめから手を出すなよといいたい。
「でもさ、浮気って……」
「もういい。あいつはあいつなりにうまくやってんだ。話すことはない」
「あおいは……」
「弘前、知っているだろ。俺にとって、べつにこれが初めてじゃない」
正直、笑えるほど何回も振られている。
何番目にもなれなかった、そう、隣の隣に、聞かせてやりたくてわざと言った。
ちらりと桐生を盗み見たが、平然とした顔でサワーを飲んでいる。効果はないようで、俺も酒をあおるように乾す。
「桐生さんだって、そうでしょう?」
「俺ですか?」
「そう。恋人に振られたことも、振ったこともあるでしょう」
「振られたことはありますけど」
「へぇ、そうなんだ」
それは、俺じゃない。ほかの誰かだ。
「や、やめろよ。こら、からむな。飲み過ぎだよ」
「俺は、振られてばっかりですからね。今度つきあう奴は振ってみたい」
ぼろっと涙がでた。
いい歳をこいて、ぼろぼろと涙がでて、おしぼりでふく。
「泣くなよう……」
「泣いてない。感情的になっただけだ。蒼は俺のこと好きじゃなかった。結局、同情でつき合ってもらっていただけにすぎない」
そう言いつつ、もう鼻声になっているなさけない自分がいる。
「いやいや、本当に蒼はきみのことはすきだったはずだよ。三年だよ。さんねん。きみと蒼がつき合ってたときなんて、蒼から意味不明なのろけを永遠と聞かされるし、いつも君の汚い寝顔の写真を見せつけてくるし、いい迷惑だったもん」
それは本当に、俺からもいい迷惑だ。
はじめて聞くし。
蒼がやりそうなことだとすぐに想像できるが、もう戒める相手もいない。
「……い、いいんだよ。恋愛は頭をおかしくさせるからな。しばらく経てばまた、忘れる。すべて時間が解決するんだ」
桐生がじっとこちらを見てるのがわかった。
すでに幸せを見つけたと思った奴にはわかるまい。どうせ、俺はついてない。
「そうかな……。もう一度よく話してみたら? 多分、蒼は君から連絡くることをまってるよ」
「は?」
「うん、まってると思うよ」
「ばかな。連絡はしない。振られたんだ。蒼のことは忘れるし、浮気野郎には新しい住所も教えないで欲しい」
「そんな……」
「好きなやつがいるんだ。そっちでよろしくやればいい」
また日本酒を煽るように飲む。喉がカッと熱く感じ、胃が灼けそうにあつい。
「それでいいの?」
「いい。三角関係はかんべんだ」
あれからずっと低飛行のように普段の生活をなぞって生きている気がする。体力なんてない。
「………うーん、分かったけど、あまり飲み過ぎないようにね」
「ああ」
横で心配そうに弘前は言った。
そして散々日本酒を注文して、散々飲み散らした弘前は会計を済ますとぐったりと桐生に項垂れながら店をでた。
とっぷりと日が沈み、大通りに出て、弘前と別れた。手をひらひらと振って、走っていくタクシーを流れるように走っていく。
「さて………お前はどうする?」
その声だけでビクッと身体が動いた。祈るようにドッペルゲンガーだ、と願っていたのは無駄だったようだ。
「………帰るよ」
「帰れないだろ」
「かえれるよ」
「ひとりじゃ、無理だ」
「むりじゃない」
終電もあるし、タクシーもある。
「無理だ」
「だいじょうぶだよ」
「……呂律が回っているだろ。そろそろ、言うことを聞いたらどうなんだ」
手をつかまれ、動きを静止される。押し問答がとまった。
「……っ」
「待てよ。俺は話したい。あと一軒行かないか? いや、喫茶店にしよう」
二つ下なのに、上から目線なのは変わらない。
流れるネオンと車のライトが交錯して、横で滑るように見える。これが三年前だったら俺は天にも登る気持ちだったのかもしれない。
「………おれは、……俺ははなしたくない。ごめん、また連絡する」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
嘘だ。連絡先なんてもう知らない。消した。
話すこともなければ、もう二度と会いたくない。いや、会う資格なんてない。
ぐっと引き寄せられるように身体を引っ張られたが、振り返ると力が弱められたので桐生の手を振り払う。それでも離してくれない。
「さつきっ!」
「……恋人、いるんだろ。幸せになってて安心した。俺は大丈夫だから」
そう言って、おもいっきり腕を振りあげて俺は逃げた。
左手を曲がったところで、誰かの気配を感じる。桐生が追いついたのか、その瞬間だった。
腰あたりに鈍い痛みと頭に鈍痛を感じた。
鈍い痛みと熱がこみ上げ、一瞬で目の前がコンクリートとぶつかる。ぼやけた視界が、思考する力すら奪う。
低くなった視線に、手ががたがたと震えた。真っ赤な液体がべっとりとついてみえた。
なんだ?
自分になにが起こったのか理解できなかった。
じっとりとした暑さのせいか汗なのか、べっとりと赤が張りついて染みる。
食いいるように見つめる桐生の顔を、はじめてみた。桐生が心配してくれる顔を見て、笑いそうになる。
………どうせ、俺はついてない。
「……っ…おい! 話すな! しっかりしろ」
遠くから、声がこだまする。
そこから、ふつりと記憶がない。
ただ、今夜こそはよく眠れるのだろうなと薄れる意識のなか、ぼんやりと考えた。
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