第5話

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第5話

『皐月、好きだ。愛している。だから、目を覚まして』  心地よい声が、頭の中でひびく。ふわふわとした眠りに、ぼんやり蒼のことをおもう。  もう好きな人と暮らしているのか。  もうあの部屋でなかよく食事をしたのか。  もう、あのころには戻れないのだろうか。  そんな、たわいもないことをおもう。  八年つき合った奴には浮気されて、その結婚式にもでて、もう恋人なんてつくらないと決めた。  それなのに俺は学ばない。桐生と出会って、互いを慰めるように抱きあう。桐生が悪いわけじゃない。淋しくて、振られたばかりの桐生につけ込んで、近づいた浅はかな自分が一番わるい。    道ずれにして、寂しさを埋めて、男にめちゃくちゃにされたら忘れられる。そんなバカなことを考えていた。  でも、だめだった。身体だけの関係をつないで、ただただ縫いとめていたにすぎない。ましてや警察官である桐生にとって、その関係は汚点でしかない。  メリットなんてない。  そんなんだから、罰はすぐにやってくる。ある日、桐生の部屋に行ったら、桐生のお兄さんがいた。別れろと冷たく言われ、誓約書を渡された。結婚するんだから、おまえはふさわしくない。あいつには婚約者がいる。差しだされた誓約書をめちゃくちゃに破って、そのまま桐生のマンションをに逃げるように飛び出した。  ごめんごめんと思った。  婚約者がいると知って、怖くなった。  そして、瞼にお腹が膨らんだドレスを浮かんで、吐いた。口をぬぐって、水を飲んで、俺はそのまま誰も知らないところにいこうと決めた。    飛行機にのって、安いアパートを契約して、衣食住をととのえた。  我ながら思い切った、馬鹿なことをしたなと呆れる。誰も知らないという気楽な土地と、どこでも仕事ができる環境に感謝するしかない。なんとかそこに馴染んだとき、一度会ったきりの蒼にばったりと再会した。 「ひとり?」  数回言葉を交わしたきりなのに、コーヒーを飲んでいた自分に気づく。こんなへんぴなところで、さびれた喫茶店でよくわかったなと思った。蒼は犬のように尻尾を振って顔を煌めかせて近づいてきた。 「……あ」 「学会できたんだ。ここ、いいかな?」  うれしそうに再会をよろこんでいる。いいよ、と返すまえに腰を下ろした。ずうずうしい奴だなと思った。そして、それから顔を見せては、自分とたわいもない話をすることになった。 「タンパク質の配列ってしってる?」 「は?」 「二十種類のアミノ酸の配列で決まるんだよ。おもしろいでしょ?」 「………うん」  にこにことした笑みを浮かべて、ずっとしゃべっている。それでも、そのどうでもいい話が心地いい。たぶん、声のせいだ。低くて、凛ととおったいい音をしている。 「皐月はここに住んでるの?」 「うん」 「引越ししたの?」 「うん」 「どうして?」 「……色々あったからさ。それよりもアミノ酸の配列をもっと教えろよ」  永遠と喋ってくれと思った。  友人も話す相手もいない、ただ黙々とパソコンを睨めっこの俺には新鮮でたのしかったから。  ただ夜だけは、桐生のことを思い出しては泣いた。どうしてこんなに好きだったのだろうと何度も考えた。  昼は蒼と会って、夜はしくしくと泣いてるなさけない毎日を送って、また蒼がやってきてごはんを食べる。  その繰り返しはとぎれることもなく、蒼はせっせと惜しげもなく、東京から片田舎の小さな喫茶店へやってくる。  なにをするわけでもなく、ただコーヒーを飲んで、豆知識をしゃべってはすぐに帰る。それでも半年も続くので、たまらず俺はどうしてここにくるんだ? と質問を投げつけた。 「ここ、気にいったんだ」 「へんなやつ」 「よく言われるよ。アメリカ育ちだからかな?」 「自慢か」 「うん、モテるからね。そう見えない?」 「どうだろうな」 「皐月は厳しいなぁ」  つっけんどんに返すのに、軽いバウンドで言葉が返ってきて、そんな会話を交わす。  そして、ことはやってくる。台風で蒼がフライトを逃してしまったときだ。蒼は急いでホテルを予約しようとした。金曜日ということもあり、他の出張者でホテルはどこも満室だった。 「泊まるところがない……、どうしよう。さつき……」  子犬のような潤んだ目でみつめられる。じぃっと、じぃぃっとだ。 「……せまいぞ」 「泊めてくれるの?」 「せまいけど、それでいいならいいけど」 「ありがとう! うれしいよ!」  ぎゅっと抱きしめられた。  野宿させるわけにもいかず、しょうがなく、我が家のワンルームを案内するハメになる。  そこからだとおもう。  蒼と自分の関係がなし崩しになって、とうとう恋人になってしまった。  なにかにつけて連絡しては会いにくるし、年上なのに蒼はよくあまえてくる。けど、蒼は桐生じゃない。桐生じゃないから、同じように、淋しさをうめて、代わりにしてしまいそうでこわい。  あるとき、その気持ちを伝えた。蒼は寂しそうな顔をして言った。 『僕を利用していいんだよ?』  ずるい。利用したくないから、言ったのに。なんの意味もなさない。その唇は寂しそうに笑って、俺にキスをする。  おなじ言葉を桐生へ言ったのを覚えている。  俺を利用していいよ……。  ごめんとおもった。抱きしめられながら、俺は蒼におなじことをしてしまうんじゃないかと、そう思って震える。  それでも、会うたびにでろでろにあまやかされて、やさしさも変わらない。いくども痕をつけるように、つよく唇をのせて、愛を囁いてくる。  好きだよとか愛してるよとか、ずっと一緒にいたいとか。いつも耳元で囁いて恥ずかしがる自分を笑っていた。  それだから蜜月のような時間が、桐生の記憶を消していった。  数年の遠距離をへて、蒼と俺は東京へもどった。だから、うまくやっていってると思ってた。  それが俺と蒼の三年だったから。  結局、因果応報なのかもしれない。  顔も、言葉も、笑った表情も、キスも、すべて覚えている。それでも、恋愛は勝手だ。さんざん、利用した。ごめんごめんとおもって、蒼にあまえた。あまえて、あまえすぎたんだとおもう。  だから、蒼は俺を棄てた。  あのころの時間をどこか箱にいれて、永遠にしまって置きたい。
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