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八月の記憶喪失
① たこ焼き
「ネクタイがいやらしいですね」
三月(みつき)はそう言って俺の制服のネクタイをつかんで少し引っ張った。
階段の1段上から俺の顔を見下して、挑発するような生意気な笑みで。
その口元はまだ子供で、でも綺麗な二重の瞳は大人だった。
アンバランスな魅力。
まだ完成する前の身体からはゾクゾクする香りがした。
そんな奴が俺のネクタイを引っ張ったのだ。
さてお前はどうする?これから俺とどうなりたいの?と視線でそう聞いてきたのだ。
暑い夏の日だった。
同棲している、三月(みつき)とは学生時代からの知り合いだ。だからこんな青春真っ盛りなエピソードもある。
それにしても、あれは正確にはいつごろだったんだろう?
記憶では三月(みつき)は半袖シャツを着ていた。そして襟元を少し開けていた。おまえこそ、いやらしい奴め。と思ったものだ。
少し汗ばんでいたし、何より夏休み前後だった気がする。
8月だった気がする。
それなのに俺が半袖シャツにネクタイをしていたのはなぜだろう?
確かに正しい夏服は半袖シャツにネクタイだったけど、暑いから誰もネクタイなんてしめていなかった。俺もいつもはそうだったはずなのに。
卒業アルバムの写真でも撮っていたのだろうか?
曖昧な記憶。
あるいは記憶喪失。
細かいことは忘れても、あの誰もが目が離せなくなるような、くそ生意気な三月の視線は良く覚えている。
「魔法でたこ焼きを作ってくれろ」
魔法なんて可愛らしい言葉を使ったのは一緒にくらしている青年、六月(むつき)だった。
可愛らしい言葉選びとは裏腹に、居間の畳に寝転がってなぜか右足だけをちゃぶ台の上に載せている。
男2人暮らしが長くなっても、普段の六月(むつき)は割と行儀が良い方だ。
そういうしつけだったのか、あるいは生まれ持った性質か。
六月の親は教師だから、しつけが厳しかったと考えるのが妥当だが、俺はなんとなく後者じゃないかと思っている。
今もみっともない姿勢でも、ちゃぶ台の上の足の裏はお風呂から出たばかりだからか綺麗だ。ガサガサもしていない。もちっとしている。
「たこ焼きを作ってくれろ」
「『くれろ』ってなんなの?」
「少しでもかわいげな表現を選んでみた」
「どういう表現だよ」
「お前、そういうの好きだろ?」
俺は雰囲気をリセットするために咳払いした。
「大体材料がないから無理だよ」
「だから魔法で作ってくれろ」
「もっと無理だよ」
「俺は外がカリッと、中がドロっとしたたこ焼きが食べたいんだよ」
「ドロっとじゃなくてトロッとだろ?」
六月は拗ねた顔になる。
「美味しいたこ焼きを食べて、暑さを忘れたいんだよ」
気持ちはわかる。今年の暑さは異常すぎる。昼間よりはマシになったとはいえ、夜でもムシムシしてしょうがない。
流石の六月もちゃぶ台に足を載せたくなってもしょうがない。
俺はチラリと時計を見やった。
「まだどっか空いてるんじゃない?買ってきたら?」
「酒飲んじゃった」
そういえば珍しく缶のカクテルなどを飲んでいた。
「まさか俺に買ってこいって言ってるのか?」
「違うよ。俺は焼きたてがいいんだよ。だからここで焼いてくれろ」
『くれろ』がよほど気に入ったのか。
「じゃあ乗せて行こうか?一緒に食いに行く?」
行くわけないよなと思って言ってみたのに、返事は意外なものだった。
「じゃ、着替えてくる」
同性の恋人と同棲していてもちっともおかしくない時代だけど、こんな田舎だと少し面倒なこともある。
ましてや六月の親は教師だ。だから普段はなんとなく人目を気にして、一緒に出かけると言ってもコンビニくらい。
『デート』の時は少し遠出することにしている。
久しぶりに地元で2人きりで出かけることになって、妙な気分だった。
いつも行くイオンより少し遠くにある『古い方のイオン』まで車を走らせた。
そこにあるたこ焼き屋さん『たこ焼きサブロー』が六月のお気に入りだ。もちろん俺も。
スタンダードなソース味のたこ焼きと、さっぱりした塩味のたこ焼きの2種類を買って、分けっこして食べるのが楽しい。
『分けっこ』って子供みたいな言い方だな。どうやら俺は少しはしゃいでるみたいだ。
「たこ焼きサブローって、なんで『サブロー』なんだろう」
「そりゃ三郎さんがやってるんじゃないの?」
「でも店長は女の人だよ」
「そうなの?じゃあオーナーが三郎さんかな?」
「だったら『サブロウ』じゃない?ローじゃなくてロウじゃないか?」
変なことにこだわり出した六月をほっとくことにした。
「それにしても人がいないね」
「こんな時間だしな」
『古い方のイオン』はオープン時こそ盛況だったものの、不景気のせいか少しずつテナントが閉店してしまい寂しい風景になっていた。
俺たちのよく行く『新しいイオン』が出来てからは尚更だ。
「新しいお店が全然入ってないね」
潰れた店のスペースには休憩所や、自動販売機コーナーが作られていた。
「テナント料が高くて、なかなか出店しないらしいよ」
「そうなの?」
六月はこう見えて地元の広報誌の会社に勤めているから、流石に事情通だ。
チラリとその姿を眺めると心なしか、頼もしく見える。
『どうです、この人結構かっこいいでしょう?』
『ツンツンして見えて割と優しいんですよ?誕生日はケーキ買ってきてくれるんですよ?』
『なんだか俺達、最近ラブラブなんですよ?』
自慢したくなったが、もちろんどれも言葉に出来ない。
言葉に出来なくたって、久しぶりに並んで歩くだけで嬉しかった。
地元で1番有名な花火大会も先週末に終わった。
そのせいかまだまだ暑いのに、もうなんとなく夏も『無かったこと』にされている。
がらんどうな『古い方のイオン』はそんな気持ちを助長させる。
隣の三月は機嫌が良さそうだ。
だから俺も機嫌がいい。
しかし
しかし
しかし
そういう時に限って、会いたくない人物に会ってしまう。
それが人生ってものだ。
諦めよう。
「中丸先輩」
気がついた三月が声をかけると、中丸(2代目)は目と眉毛を動かして挨拶の代わりとした。
喉くらい震わせろよ。まあ、いいけど。
中丸(2代目)はほとんど接点もないただの同級生だ。ほぼ話した事もない。お互い忘れるはずの存在。
だけど一度だけ、三月と俺の間柄について余計な事を言われたのが、悪い意味で忘れられない。
因みに『(2代目)』というのはお父さんがパン屋をやっていて、今度その後を継ぐらしいので『(2代目)』なのである。
「買い物?」
「はい」
三月の後ろにいるとは言え、そこそこ背丈のある俺に気がつかないわけがない。それなのに俺とは目を合わせようともしない。
ひょっとして俺は、心の清らかな人にしか見えない妖精なのかも知れない。だからこいつには見えないのかもしれない。
「先輩も買い物ですか?」
「嫁がスタバ行きたいって言うからさ」
気怠そうに言うと、5メートルほど後ろにいるベビーカーを押した黒いワンピースの女性を顎で指し示した。
自分の配偶者にそういう態度はどうなんだろう。まあ、いいけど。
「あのうるさいのは、うちのガキ」
女性の隣ではしゃいでいる子供を指してそう言った。
自分の子供をガキとか呼ぶのはどうなんだろ。まあ、いいけど。
「あの猿はうちのちび」
ベビーカーの中の赤ちゃんをそう紹介した。
赤ちゃんは確かに猿っぽい瞬間もあるけど、そもそも猿じゃないし、自分の子供をちびって呼ぶのもどうなんだろう。まあ、いいけど。
だいたい「ちび」という言葉は相対的なものだ。つまりこの地球を包含する広大なる銀河に比べれば全てのものが「ちび」と言い得るし、その銀河さえ宇宙全体に比べれば「ちび」である。
まあ宇宙の事は実は良く知らないけど、一つだけ確かなのは俺はこいつが好きじゃないということだ。
そんな奴と1秒でも接していたくない。
俺は妖精のごとくふわりとその場を離れた。食品売り場でも見に行こう。
「あ〜あ、行っちゃった」
「パンでも買いに行ったのかな?」
俺がそれとなくフォローしても中丸先輩は少し面白くなさそうな顔だ。
「あいつは昔からああいう感じだよな」
『ああいう』というのがどういう感じかはわからないが、確かに昔から六月と中丸先輩は相容れない様子だった。別に相容れる必要もないけど、学生時代も喋っているのをほとんど見たことがない。
ちょっとやんちゃで斜にかまえてる中丸先輩は六月が苦手そうなタイプだし、物静かでクールな優等生の六月は先輩にとってはなんだか気に食わないんだろう。
実際の六月は、そんなに物静かでもクールでもないんだけどな。
「ここのイオン随分寂れちゃいましたね」
「そうだな」
かくいう俺も特に話すことはないので、どうでもいい話題でお茶を濁す。
「そういえば、俺パン屋をやってるんだよ。買いに来いよ」
「え、後を継いだんですか?」
「まあ、そんなところ」
中丸先輩の実家はパン屋さんをやっているのだ。庶民的で昔からある温かい感じの店だから、なんだかこのヤンキー・・・もとい『大きくなっても子供心を忘れないような』先輩が後を継ぐのは想像がつかない。
「来ないとぶっとばすから」
先輩は笑いながら、笑えない冗談を言ってくる。
「もちろん行きます」
絶対行かないだろうな。
「おーい」
俺が明日の朝食用にパスコの超熟食パンかマフィンかで悩んでいると、三月がやってきた。
自然と隣に立つ。しかもぴったりと隣じゃない、ほんの少しだけ間を開けている。俺が三月と2人でいるところを知り合いに見られたくないだろうと、配慮してくれてるのだ。
三月はさっきのように、苦手な人間に対してすぐ態度に出してしまう俺の性格に何も言わない。
間違っても『もっと愛想よくできないのか?』とか言わない。
俺を否定しないし、肯定もしない。ただそのまま隣にいる。
小さい頃から『お前のそういう態度が悪い。直せ』と言われてきた欠点を、多分受け入れてくれている。
なぜそんな風に俺に良くしてくれるのかわからない。わからないから、嬉しいはずなのにとても不安になる。
「食パンにするの?マフィンにするの?」
「どっちでもいい。冷凍してあるパンもあるし」
「そう」
三月は俺と違って誰とでも仲良くできる。カルチャースクールの講師という仕事だってコミュニケーション能力が無いと出来ない。
一緒にいると他の誰よりも楽しいのに、他の誰よりも俺に自分のコンプレックスを思い出させる。
「たこ焼きを食べに行く?」
優しい声。なぜそんな風に気を使ってくれるんだろう。
あの夏の日に見た生意気な顔はそのままなのに、視線はいつの間にか大人びていてそれがますます俺を苦しめる。
「行こうか」
小さくそう答えると、三月は嬉しそうに笑った。
「そういや先輩はパン屋を継いだらしいよ」
六月は美味しいたこ焼きにかじりついて、暑さと中丸先輩によるダメージを回復したようだった。だから恐る恐る気になっていた話題を口にしてみる。
「そうらしいな」
「知ってたの?」
「うん、会社で聞いた」
「さすが、営業マン」
感心するとちょっと嬉しそうな顔をした。大分ダメージは回復しているようで良かった。
「正直意外だった。先輩がパンを作る姿が想像が出来ない」
「さぞかしアグレッシブなパンを作るんだろうよ」
「アグレッシブなパンか」
アグレッシブという言葉がどんな意味なのかはわからないけど、良くない意味で使っていることはわかった。
「先輩ってお兄さんがいたよね?もしお店を続けるなら、あの人が継ぐのかなって勝手に思ってた」
「そういえばいたね。家の姉さんと塾が一緒だった気がするな」
中丸先輩のお兄さんは、弟とは対照的に穏やかで理知的な人だった。
『対照的』に『理知的』って失礼かな。
「確かにパン屋さんぽかったな。指が長かったし」
六月が良くわからないことを言う。
「指が長いとパン屋なの?」
「短いよりいいだろ?」
そりゃそうだけど。何故中丸先輩のお兄さんの指の長さまで知ってるんだろう。
「ごちそうさま」
いつのまにかたこ焼きをたいらげた六月がにこにこして言った。
「車出してくれて、ありがとう」
急にそんなこと言われるとどうしていいかわからなくなる。
『古い方のイオン』に蛍の光が流れ始めた。
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