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② アイスコーヒー
「駅前にカフェが出来るらしいですよ」
勤め先のカルチャースクールで、いつものように職員全員(と言っても3人だけ)でお昼を食べていると、同僚の柏木さんが言った。
「本当ですか?」
「ここらへんに作ってもきっとすぐ潰れるよね」
所長がペットボトルのお茶を飲みながら呟いた。
「狂気の沙汰ですよね。カフェの墓場に作るなんて」
『カフェの墓場』なんて大げさに聞こえるが、確かに柏木さんの言うとおりだ。
このカルチャースクールから10分ほどにある地元駅は、少子化と不景気に伴って、年々利用客が減る一方だ。
運行本数が少なくて不便だからと学生さんはスクールバスに乗るか、親に車で送ってもらうし、ターミナル駅までの高速バスが運行するようになってからは通勤で使う人も少なくなった。負のスパイラルである。
駅に人がいないんだからお客もいない。その割に一応駅前だから賃料は高い。だからカフェが出来ても大抵1年ももたない。
「それにしても駅前のどこに出来るんですかね」
「エレベーターのすぐ横あたりじゃない。自動販売機コーナーがあったところ」
「エレベーターなんて出来たんですか?」
しばらく電車に乗っていないから知らなかった。
「自動販売機コーナーがあることも知らなかったです」
「その前は立ち食いそば屋だったらしいけど、潰れて自動販売機コーナーになったみたい。でもそこも潰れたんだけどね」
「自動販売機コーナーが潰れるなんて、すごい駅ですよね」
柏木さんが淡々と言った。
「でも潰れてないチェーン店のカフェもあったね」
「あそこは駅前っていうほど駅から近くないから、車で来る人が多くて潰れないんです」
「確かに、僕は電車通勤だからか行った事ないな」
所長は1時間近くかけて、上りにある大きな駅から通勤している。仕事が終わったらすぐに帰りたいんだろうな。
柏木さんは3つほど離れた駅が最寄りだけど、電車は使わず車通勤だ。
考えてみると俺たち3人はお互いの情報をあまり共有していない。誰と誰が同級生だとか、誰と誰が同じ歯医者だとか、誰と誰がつきあっているとか。
だから一緒にいても気楽なのかもしれない。
「カフェが出来たらみんなで行ってみましょうか?」
「ああいいじゃない」
所長は同意してくれた、柏木さんも一応うなずく。たまには3人で外出するのもいいかもしれない。
「午後に最新号を配りに行く時に、このチラシも一緒に置いてきてくれるかな」
優しい上司の堀米さんが優しい口調で聞いてきた。
「はい、もちろんです」
「ありがとう。助かります」
まだ何もやってないのに、感謝されてしまった。甘やかし上手だな。
勤め先の地元広報誌の会社は、今ではデジタルでの情報発信が主流だが、ネット環境を持っていない人のために、紙媒体の情報誌も毎月発行している。
情報誌は最新号が出来ると、スーパーとか郵便局とか人が多く集まる場所へおいてもらうことになる。
うちと広告契約しているお客さんに頼まれれば、一定期間は広報誌の隣にそのお店のチラシを無料で置いてあげている。
胸が温かくなる、心優しいサービス。
でも渡されたチラシを見た途端、温かな気持ちは消えてなくなった。さよなら。
「中丸パンの2号店ですか?」
「うん、来月にオープンするみたい。最近の人は仕事が早いね」
「2号店もうちに広告出すんですか?契約したんですか?」
「いや、してはいないけど」
HPか情報誌に広告の注文がなければ客とは言えない、お客さんじゃなければサービスする必要もない。
「しかもこのチラシ、うちのチラシ作成プランで作った物でもないし」
「まあ、そうだけど」
どうみても家庭用プリンターで印刷したペラペラのチラシだった。しかもインクがこすれている。
中丸(2代目)のことだ、きっと純正インクでもないんだろう。まあ、別に純正じゃなくてもいいけど。
「断ってもいいんじゃないんですか?」
通常堀米さんの前では猫を被っているので、いつになくむっとした俺に驚いたようだった。
「でも中丸パンの本店は昔からの顧客だし、まあサービスだから」
心優しいサービスにつけこまれている気がして、ちょっといやな感じだ。
「そういえば、明日は外回りがあったから、その時に配って来るよ」
堀米さんはそういって、さりげなく俺の手からチラシを持っていった。
「しかし暑いね、ジュースでも奢るよ。アイスコーヒーでいいかい?道端さんは何がいい?」
同僚の道端さんがカルピスソーダを頼むと、堀米さんはひょいひょいと席を離れて行った。
自分でも悪い意味で子供っぽいのが分かった。これもきっと暑さのせいだ。地球温暖化のせいだ。温室効果ガスのせいだ。
一人でぶつぶつ言ってると、急に道端さんが話しかけてきた。
「最近『古い方のイオン』に行った?」
「はい、この前行ったばかりですけど」
「あそこのたこ焼き屋さん、今日で潰れるらしいよ」
家に帰ると見慣れた男が居間で行き倒れていた。
「ただいま」
返事がない。
シャツにスーツという外回り仕様の恰好のままで着替えてもいない。
いつもは仰向けで寝っ転がっているのに、今日はうつ伏せで転がっているから、よほど疲れているのかもしれない。
部屋の中でビュービューと音を立てているクーラーはどうやらスイッチを入れたばかりのようであまり効いていない。
ぴっぴっとリモコンで温度を下げてあげた。
かばんを置いて、手洗いとうがいをして、ついでに部屋着のTシャツに着替えて居間に戻ってきても、相変わらず行き倒れている。
「疲れたの?」
六月は声にならないような声で返事をした。
暑い中での外回りだけでも大変だっただろうし、そもそも六月にはあまり親しくない人とのコミュニケーションが、すごく負担のようだ。だから営業という仕事は彼にとってすごく疲れるに違いない。
太々しく見える時もあるけど、ものすごく繊細な人なのだ。
「アイスコーヒーでも淹れようか?」
俺の言葉に六月はバッタみたいにビクっと身体を震わせた。
「うん」
「待ってて」
ドリップは面倒くさいので、インスタントで適当に入れた。
それでも家にある中では、まあまあお洒落なグラスに注ぐと様になる。
グラスをちゃぶ台に置くと、六月はむくっと起き上がって、なんでもないことの様に言った。
「たこ焼きサブロー、今日で潰れるらしい」
「え、本当に?この前行ったばっかじゃん」
「会社の人が言ってたから、本当だと思う」
六月は無表情でそういうと、俺の淹れたアイスコーヒーをごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
ボタンが2つ開けられているシャツから首筋のラインがよく見えた。
そこで思い出した。
六月も俺も学生だったころ、ある8月の暑い日、夏休みだというのに学校に行った。
六月が参加したボランティア活動が地元の新聞に取材されるというので、わざわざ見物に行ったのだ。
半袖シャツにネクタイをして、いつもより数倍すました顔の六月が写真を撮られてるのを見ていた。
顔を合わせていなかった、わずかな間にも彼は少しだけ大人になっているような気がして、なぜだか怖くなった。そして隣には『六月の彼女』と言われている人物が立っていた。
取材の後、ボランティア仲間や野次馬達みんなで遊びに行く相談をしていると、六月はふらりと校舎の階段を降りて行ってしまった。俺はその背中を追った。
「みんなと遊びに行かないんですか?」
ひょっとしたら俺と2人で遊んでくれるのかな?と期待して、そう聞くと、六月は振り返りながら答えた。
「暑いから帰る」
そしてごく自然にその長い指でネクタイをするすると緩めたのだ。
期待した自分が恥ずかしくなったし、ネクタイに置いたその指がすごくいやらしく感じたから、どうしようもなく気持ちがぐちゃぐちゃになった。
頭がクラクラした。
どうしてもどうしても、この人の心を掻き乱してやりたい。今の俺と同じようにしてやりたい。それしか考えられなくなった。
俺は、自分の指を絡めてそのネクタイを引っ張ってやった。首輪を引っ張る飼い主のようにそうした。
自分の魅力はそこそこ把握していた。
瞳、まゆ毛、唇、声。それらが特に女性に効果的な事は実証済みだった。
多分こいつにも通じるはずだ、根拠のない自信があった。
「ネクタイがいやらしいですね」
今考えると、恥ずかしくて即死しそうな言葉だが、あの時は真剣だった。
どうしても六月の関心を引きたかった。
俺はそれだけを願ったのに、六月は結局その願いを叶えてはくれなかったのだ。
堀米さんが買ってくれたアイスコーヒーも、三月が淹れてくれたアイスコーヒーもどちらも暑さを少しだけ忘れさせてくれた気がした。
「なんか寂しいね」
三月が柔らかい口調でそういったから、なぜか俺はほっとした。
「寂しいな」
時々自分がナーバス過ぎる気がして不安になる。
たかだかたこ焼き屋だ。美味しいとは言え、常連と言う程通っていたわけではない。
それでもやはり寂しい。
「出かける」
そう宣言すると、三月は少しだけ心配そうに俺を見た。
「たこ焼きを食いに行く」
幸い着替えてないので、バッグを片手にすぐに家を出ようとすると彼は言った。
「俺も行きたい」
いいよ。と俺は答えた。
普段は割と行儀よく食事をする六月だが、たこ焼きを食べる時はなぜか豪快にかじりつく。
「なんでそんなにがぶがぶ食べるの?」
「ちびちび食べると危ないから、火傷防止」
かじりつく方が危険だと思うけどな。
有言実行の男、六月はすばやく車を出して、素早く『古い方のイオン』へ乗りつけ、すばやく『たこ焼きサブロー』でたこ焼きを注文した。
もちろん塩味とソース味。
それを分けっこして食べる。
「寂しいけど、俺はこの店があったことを忘れない」
六月は急にかじりつく手を止めて、真面目な顔をしてそう言った。ちょっと大袈裟で、突拍子もない気がしたけど、俺はこの人のこういう所が好きなんだと思う。
「こんばんは」
お店から出てきた女の人が、すぐ前のイートインスペースに居た俺達に話しかけてきた。
恐らくこの人が六月が言ってた店長さんだ。
「このお店、今日で閉店なんです」
「はい、知ってます。だから来ました」
店長さんは驚いて、それから嬉しそうな顔になった。
「わざわざですか?ありがとうございます」
「いえ、そんな。今までお疲れ様でした」
六月の人見知りも今日は発揮されないようだ。
「そういえば『サブロー』って名前の由来はなんなんですか?誰かのお名前ですか?」
「いえ、寒天培地です」
「え?」
まったく予想していなかった答えに俺も三月も何故か少しだけ笑ってしまった。
「『かんてんばいち』ってなんですか?」
初めて聞いた言葉だ。
「微生物や細胞を培養するための寒天です。その寒天培地にサブローって種類があるんです。それが由来です」
「そうなんですね」
「はい」
「そうなんですね」
他になんと答えればいいか分からず、機械人形のようにそう繰り返した。
「それじゃあ、わざわざありがとうございました」
ふかぶかと頭を下げると、店長さんは去っていった。
『微生物や細胞を培養するための寒天』
食べ物屋さんの名前の由来にしては、ちょっと怖い。
「この店の事は忘れないけど、寒天培地のことは早く忘れるようにするよ」
三月は何も言わなかった。
「そういえば、学生の頃に、俺が階段でお前のネクタイを引っ張ったことを覚えてる?」
たこ焼きにかじりつく姿を見て、再び思い出したので、六月にも聞いてみた。
「実はこの前、俺もそのことを思い出した」
「本当に?あの時、すごくびっくりした」
「なんで?引っ張られた俺がびっくりするほうじゃない?」
「その後の自分のリアクション覚えてないの?」
「記憶喪失みたいだ」
「ひどい」
たこ焼きにかじりついてる場合じゃないぞ。
ネクタイを引っ張り、自分なりに誘惑してやったはずなのに、次の瞬間、俺はあっという間に六月に敗北した。
六月の顔が徐々に近づいてきたのだ。
あ、キスするんだ。
どんな時も始めてのキスは緊張するものだ。俺は目を閉じることも忘れて、静かにその時を待った。
しかし六月は予想外に、大きく口を開けるとがぶっと俺の鼻にかじりついたのだ。
それこそ尻尾を踏まれた猫のように悲鳴をあげた。
かなり本気のかじりつき方で、そうとう痛かった。ちょっと泣いた。
呆然とする俺を一瞥すると、六月は無表情のままとっとと去っていった。
トラウマになりそうな夏の事件。
「忘れるなんて、ひどい奴だな」
俺が非難すると、六月はその時みたく無表情のままこう言った。
「ちびちび食べると火傷するから、かじりつかないといけないんだよ」
そう言って、塩味のたこ焼きにかじりついた。
『ちびちび食べると火傷するから?かじりつく?』
あの時も鼻にかじりつかれた・・・つまり俺の誘惑は成功していたということなのか?
記憶喪失だなんて、この嘘つきめ。
そのうち、こっちが鼻にかじりついてやる。
そう思いつつ、俺はとりあえずソース味のたこ焼きにかじりついた。
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