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「ただいま」
家に帰ると、卓袱台の上で茶色い姿の唐揚げが俺を待っていてくれた。
唐揚げ:『おかえり、待ってたよ。今日も一日お疲れ様』
白いお皿に盛り付けられた、茶色い姿からそんな声さえ聞こえる気がして、自然と笑顔になる。
俺:『お前が居てくれるから、俺はこの家に帰って来るんだよ』
そんな甘いささやきさえ口にしそうになる。
相手は唐揚げなんだけど。
「おかえり」
気が付くと唐揚げの隣に三月もいた。
「なんだかぼんやりしてないか?」
「そうか?」
唐揚げに気を取られて、お前の存在に気が付かなかったよ。とは言いづらいので、曖昧に微笑んで誤魔化す。
三月も嬉しそうにした。
「その唐揚げ、実家からもらってきた。いや、竜田揚げかな?違いがよくわからないけど」
「ありがとう」
ほとんど料理をしなくても、別に不自由はしないけど、揚げ物だけは時々無性に食べたくなる。でも自分で揚げるなんて絶対にしたくないし、わざわざ買うのも面倒だから、こうして労せずして食べられるのはありがたい。
「六月は人の家の手作り料理とか苦手そうだけど、良かったら食べて」
確かに人の家のサラダとか、カレーとか肉じゃがは食べたくないけど、揚げ物は高温で殺菌されているから大丈夫。
「わざわざありがとう、いただきます」
おう。と三月は照れている。
照れることはない、ただ腹が減っているだけなのだから。
「因みに、唐揚げと竜田揚げは衣が違うんだと思う」
「そうなの?」
「確かそうだと思う」
「さすが物知り」
また褒められて嬉しくなってしまった。
「不景気ですね」
勤め先のカルチャースクールで、同僚の柏木さんが職員全員の前でそう呟いた。
職員全員と言っても3人だけだ。
一応美術系出身の俺は、絵手紙、似顔絵、簡単なイラスト、果ては水彩画まで担当。
語学が堪能な柏木さんは、英語と韓国語のクラスを担当。更にNHKの通信教育で習った中国語とYouTubeで聞いただけというフランス語も『初級講座』と銘打って生徒をさんを集め教えている。
本当は事務一般を担うだけのはずの所長は、なぜかSNS講座とか初心者のスマホ講座とか、インターネット初級とかデジタル系のレッスンを受け持つ。
つまりは人手不足なので、無理やり3人で切り盛りしているのだが、最近はそれほど生徒さんが集まらず、儲かっていないので本部に人手を回してくれなんて文句は言えない。
生徒が少ない分、雑務も少ないから、決してブラックではないが、その分採算も黒字にはならない危うい職場である。
「不景気なのは前からじゃない、急にどうしたの?」
「今期の英検キッズコースの定員がガラッガラのガラッガラなんですよ」
『英検キッズコース』は小学生の低学年から英検を取得しようという、志の高い子供達の為のコースである。
とは言いつつも勉強をバリバリやるというよりは、みんなで楽しく、テストの雰囲気に慣れるためのふんわりとした講座だった。
「それなりに人気があった気がしますが」
「今はネットで幾らでも安い授業が受けられますからね。それにしても定員の3割も埋まらないのは初めてです」
うーん。所長も唸ってしまった。
講座にもよるけど、大抵は定員の6割は埋まらないと採算が取れない。
「隣の駅前に子供向けの英語スクールができたらしいから、みんなそこに流れたのかも」
「そうなんですか?なんで知ってるんですか?」
「スマホ講座の生徒さんがお孫さんを通わせるって言ってた」
「ダメじゃないですか、うちの講座に勧誘してくださいよ」
「ごめん」
柏木さんがため息をついた。
「本物の英語教室よりも、関心を引くようなウリがないと難しいですかね」
「別にうちだって偽物ではないよ?」
「関心を引くのは、難しいですよね」
柏木さんはまたため息をついた。
俺は聡君の話を思い出した。
「まさか本当にお金が欲しいんですか?仕事がうまくいってないとか?」
聡君はここら辺からは電車で1時間ほど都会に上った、大きな会社に勤めている。もちろん正社員なので収入も安定しているはずだ。
「別にそういうわけじゃないです」
「じゃあなんなのさ」
「最近愛が減ったなと、ヒシヒシと感じるんです」
俺が訳のわからないと言う顔をすると、
「なっちゃんが最近冷たいんです」
ああ、そういう事か。
「子供が出来るとどうしてもそちらが第一優先になってしまうから、前より愛情が減ったと感じる人は結構いるみたいですよ」
友人から聞いただけの話だが、さも知ったような口を聞くと、聡君は首を横に振った。
「そうじゃなくて、そもそもなっちゃんてちょっと薄情というか、僕に対してあんまり愛情がないんです。僕の深い愛情と比べると釣り合いが取れていないんです」
「薄情とか、実の兄の前で言わないで下さい」
「それにおかあさんも僕に対する愛情が減りました」
「それは母さんにとってやっちゃんは孫だし、家族の新メンバーだから、そちらにかまうのは仕方ないですよ」
「駄目です。新規も古参も大事にしなきゃ駄目です」
新規とか古参とか、どういう意味だよ。
「前はこちらの家に来るたび、僕が好きなイカリングフライを揚げてくれたのに、最近は唐揚げばかりですし」
「イカリングは油がハネるから嫌いって昔から言ってたから」
「このごろ僕をのけ者にして、なっちゃんと2人でこそこそ話しているし」
「親子だからいいじゃないですか」
聡君はなおもぶつぶつ言っている。
「そもそもそれが太陽光発電を始めたいことと、何の関係があるんですか?」
「太陽光発電で儲けて、なっちゃんの関心を引きたいんです。愛情を取り戻したいんです」
俺は頭を抱えた。
気が付かなかったけど、聡君は少年のような外見どおり中身も少年だったのか。
「後はもちろん、純粋にお金もほしいです」
「そうなんだ」
「今は特に影響はないけど、こんな不景気ですから、お金はあって困るものじゃないです。消費期限もないし」
「まあ、そうだよね」
俺は気を取り直してコーヒーを飲んだ。
聡君もひと通り話して気が済んだのか、コーヒーを飲んだ。
「ところで、父さんの関心は引きたくないんですか?」
聡君は曖昧な笑みを浮かべた。
「今日は早めに帰っていいよ」
時短勤務の道端さんが帰ったばかりだと言うのに、堀米さんはそんなことを言いだした。
社会人として『早く帰っていいよ』という言葉ほど嬉しいものはない。
普段なら鞄を引っ掴んで、とっくに会社を飛び出しているところだ。しかし今日はそうもいかなかった。
「まだハロウィンイベントの素材が集まってないので、今日は定時までは頑張ります」
珍しく仕事モードな俺を見て、堀米さんは少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
その表情を見ただけで、だいたい言いたいことはわかってしまった。
「国道沿いのバイク屋さんからメールが来て、イベント内容を少し考え直すから、広告依頼はキャンセルしたいって」
やっぱり悪い知らせだ。
「急にどうしたんですかね」
「うーん、どうしたんだろうね」
堀米さんは優しげに微笑んだ。
「自分のお店のSNSとかで宣伝すれば充分だと思ったんですかね?」
「どうだろうね。僕たちがいくら考えても、本人に詰め寄りでもしない限りわからないからね」
じゃあ詰め寄ってやりましょう。かぶとかぼちゃを振り回して詰め寄ってやりましょう。
そう思っていても出来ないのが社会人だ。
「不景気ですね」
本当にネガティブな出来事が起こっている時には、ネガティブな発言はしたくない。言葉にすることで、真実だと認めてしまうのが怖い。
それなのにポロリと口からこぼれてしまった。
すいません。愚痴っぽい事言って、と謝ろうとしたらその前に返事が来た。
「不景気だね」
何かフォローしてくるかと思った堀米さんは意外にもそのネガティブな発言を受け止めた。いつもより優しい口調で。
「なにか別のハロウィンのアイデアを考えてみますね」
無理矢理ポジティブを装うとすると、堀米さんはまた優しく言った。
「いいよ。気持ちが落ち込んでいるときは早く帰って、休んで」
「でも、何もしないままどんどん仕事が無くなっていったら困るじゃないですか」
ずっと考えてたいたことだった。ずっと前から不安に思っていたことだった。
俺が入社したころから、業績は右肩下がりだったけど、このごろはもう『不景気』で済まされないような数字だ。
うーんと少し考えてから、堀米さんはいつもと変わらぬ口調であっさりと答えた。
「時代に淘汰されるなら、仕方ないね」
駅から車で20分ほどの住宅地に、かなり古い貸し家がある。
一応リノベーションはしてあるけど、冬は寒くて夏は暑い。四季をダイレクトに感じられる建物。
近くに幹線道路があるので、夜はちょっとうるさい。
おまけに隣には大家さん夫妻が住んでいて、たまに顔を合わせるとなんとなく気まずい。
その分家賃は手頃だし、リビングの他に寝室が2つあるし、駐車場も2台分無料だ。
そこが俺の家。
三月と俺の家。
エンジンを切った車の中から、ぼんやりと家を見ていた。
実家以外の場所で暮らすのはここが初めてだから、最初は変な気がしたのに今は大分慣れた。
玄関横の壁についている茶色い染みすら、見たらほっとするくらいだ。
それにしてもあの染み、日々くっきりして、人の顔に見えて来て怖いな。
人面魚みたいになっちゃうのかな。あるいはムンク。
いずれにせよ、このままここで三月と一緒に暮らすためにはちゃんと収入を確保しなくてはいけない。仕事がなくてはいけない。
三月と俺が永遠に一緒にいるのは無理だろう。無理だろうけど、出来ればもうすこしだけ一緒にいたい。
「何しているの?」
わざわざ同居人が玄関から出てきて、俺の車を覗き込んだ。
「なんでここにいるのが分かったの?」
「なんでって、車の音がしたし、窓からのぞいたら見えたから」
「そう」
「今日は帰りが早いね」
「ああ、まあ」
ふーんと年下の男は唇を尖らせた。
「不景気だから、早めに帰っていいってさ」
「そうなの?」
こんなこと言うつもりじゃなかったのに、案の定、三月の顔が心配そうに曇った。
誰かに頼るな。
誰かに迷惑をかけるな。
誰かに助けてもらおうと思って甘えるな。
そんな風に育てられてきた。
よく考えれば無茶苦茶な話だ。誰だって1人では生きられないのだから。
「人と言う字は支え合って…」なんて、ドラマの先生は言っていたのに、うちの親父もいちおう同じ教師なのだから見習え。
まあ、あれはドラマだけど。
とにかく小さい頃は、それが無茶苦茶なしつけかどうかなんてわからない。
そのまま大きくなって「誰かに甘えずに生きる」なんて、無理な話だと理解はしたけど、今までの自分を変えるのはとても難しくて。
『俺に頼っていいし、迷惑をかけていいし、なんなら甘えてもいいですよ』
『どうして?』
『どうしてって…それは、あなたが特別に好きだから』
以前、三月にそう言われて、びっくりした。今まで俺のことを『特別』だなんて言ってくれる人はいなかった。だから嬉しかった。嬉しすぎて、どうしたらいいのか分からなかった。
今もそうだ。頼りたくても、うまく行動に移せない。助けてもらいたいのに、小さい頃にかけられた呪いから逃げられない。
だから三月に弱音を吐いた事をすぐに後悔した。
「ごめん」
六月は本当に申し訳なさそうに言った。俯くと思ったより長いまつ毛が際立つ。
いつもは薄情そうな唇を、心の揺らぎのまま少し噛み締める。
黙っていると冷たく見える外見が、まるでおどおどとした子供のように変化した。その光景を見るたびに俺はこの人にどうしようもなく惹かれるのだ。
「まあ、どこも不景気だから」
「うん」
「暗くなっても仕方ないし」
六月は静かなままだった。
「こういう時はなんだかドキドキワクワクなことでもするか。パチンコなんてどう?」
冗談っぽくそういうと、六月はいきなり真面目な顔でこちらに向き直った。
「おにいさん、どうせならもっといいことしませんか?」
最近どこかで聞いたようなことを言われる。
「いいこと?」
「すごく気持ちのいいこと」
六月はニコッと微笑んだ。
もうやけくそという感じの笑顔。
「お外で気持ちのいいことしませんか?」
げげげ。
何を不謹慎なことを言い出すんだこいつは。
「急に言われても、心の準備が」
「大丈夫だよ」
六月の声が怪しくも心地よく響いた。
「俺に任せれば大丈夫だよ」
車から降りてきた六月がとっとと大きな道路へ歩き始めた。
「一体どこ行くの?」
「ローソン」
六月の言葉に俺は素っ頓狂な声をあげた。
「は?ローソンへ行く事の何が『気持ちのいいこと』なのさ?」
「ローソンはいつだって気持ちのいいお店だぞ。そもそもお前は一体何を期待していたわけ?」
ぐぐぐ。と言葉に詰まる俺を見て、六月はにやにやと笑った。
意地悪な奴め。
「ローソンならいつだって行ってるだろ」
ぶつぶつ言いながらサンダルのまま歩き出す。
「だから、今日は特別なことをしよう」
「なんだよ?」
六月がいきなり手を握ってきた。
六月の神経質で割と綺麗な指が俺の右手に絡まる。
「手を繋いで行ってみよう」
くくくと笑って、そのまま引っ張っていかれる。
そもそも誰がいつどこで、誰と手をつなごうがその人の自由だ。
老若男女、その他の誰でも、誰かと手を繋ぐ権利はある。
だけどさ。
「人に見られるぞ」
「それがスリルだろ」
「知り合いに見られたらどうするの?」
「それがドキドキだろ」
「ワクワク要素は?」
「この状態がワクワクするだろ」
「どうしていつも急に突拍子もない事をするんだ?」
「呪いのせいだよ」
「呪い?」
また変な事を言いだす。
文句を言おうとしたその時、進行方向の脇道から中学生くらいのグループが自転車で飛び出してきた。
目の前でキュキュッとタイヤが鳴った。
ぎりぎりで立ち止まったから大丈夫だったが、もう少しで轢かれるところだった。
「すいません」
グループの1人が去り際に元気良くそう言った。
「すいませんで済むなら警察はいらない」
六月がぷんぷん怒り出す。
「告訴してやろう。民事裁判だ」
「ああ、うん」
「ノリが悪いな。大丈夫?」
「ああ」
だって俺達はまだ手を繋いだままなのだ。きっと誰かが現れたら六月の方から手を離してしまうと思っていた。
それなのに当たり前のように、長い指は絡まったままだった。
いつまでこのままなのだろう、まさかローソンの中までじゃないだろう。入る前に離すのかな?
六月はなおもぶつくさ言いつつ、また歩き始めた。
その後は特に何も喋らず、のんびりとローソンに近づいていく。いつの間にか悪い意味でのドキドキはなくなり、ひどく穏やかな気持ちになった。
ロマンチックな言葉のひとつでもかけたいのに、思いつかない。
そしてどこからか小さな振動が聞こえた。
スマホが震えている、ポケットから取り出すと堀米さんからLINEが来ていた。
『お疲れ様です』
『気持ちを切り替えて来週あたりからクリスマスイベントに注力しましょう』
『ではまた』
堀米さんから勤務時間外に連絡があることは珍しい。夕方の会社でのやりとりを気にして、連絡をくれたんだろう。
【はい、そうしましょう】
【お疲れ様でした】
カッコいい言葉なんて思いつかないに決まっているので、無難なことを急いで返信した。
「ごめん、行こう」
ぼんやりしている三月にそういうと、うなずいた。
「会社の人?」
「うん。堀米さん」
「やっぱりな」
「なんでやっぱりなんだよ」
三月は何も言わずにそそくさと行ってしまった。
ローソンの明るい光が見えた。
「何を買おうか?」
「別になんでもいい」
「パスタは?」
「いいんじゃない」
どこか空返事の三月の背中を見ながら、そういえばいつの間にか、繋いだ手を離していたことに気がついた。
「腹減った?」
「まあまあ」
三月の声はやはりどこかぼんやりとしていた。
さっきまで三月と繋いでいた自分の左手を見つめる。
『会社の人?』
『やっぱりな』
都合のいい時は甘えたいと思うくせに、都合が悪くなるとすぐに手を離す。
俺は薄情な人間なんだろうか?
これもまた呪いなんだろうか?
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