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梅雨になると
人は誰しも忘れられない記憶がある。
それは人によって様々であり、多種多様の記憶がある。
飯塚仁も例外ではなかった。むしろ、忘れたいのに忘れられずに苦しんでいた。
私が飯塚からその話を聞いたのは、まだ梅雨の頃だった。たまたま居合わせたショッピングモールで、どうせなら一緒にランチをと近くの駅構内の喫茶店へ入った。
何か思い詰めた顔をしているのは分かっていたが、本人の言う気がないのに詮索しては失礼だからと気付かないふりをしていた。サンドイッチを食べ終え、食後のティータイムを楽しんでいると、飯塚はやっと話し始めた。
「昔さ、この梅雨の時期に嫌な体験して」
という前置きをして。
私は静かに頷き続きを促した。
飯塚の話はこうだ。
子供の頃住んでいた実家で、毎年梅雨になると家の何処からか妙な音が聞こえていた。
物心ついた頃から聞こえていたのできっと雨の音だと思っていた。
「でも、ある日どうしても気になって、音の正体を探り出したんだ」
飯塚少年は、どこにでもいるやんちゃな男の子で、古い家を探検気分であちこち調べたそうだ。
そして、音が聞こえるのはどうやら物置になっている小部屋からというところまで掴んだ。
「物が乱雑に置いてあって危ないから入るなと言われてたけど、俺、音が気になって入ったんだ」
家族の留守中にこっそり入った小部屋は、確かに物が乱雑に置かれていた。古い本や家電の空き段ボール、当時の飯塚にはよく分からない物も多かった。
「狭くて薄暗いし、埃っぽいしで少し不安になったんだ。だから俺、諦めて小部屋を出ようとしたんだよ」
その時、あの音が背後で大きく鳴った。小部屋の中、薄暗い空間に妙に響いたのだそうだ。
「このときに初めて気がついたんだ。…音が、何かを引っ掻くような、引きずるような…そんな音だって」
ガリガリ…ズルズル…。
飯塚少年は突然恐怖を感じた。背後に、小部屋の暗がりに何かがいる。しかし、この時ばかりは好奇心が勝った。飯塚少年は、勢い良く振り向いた。
その目に見えたのは…。
「女だった。上半身だけの。壁を爪で引っ掻いて…引っ掻くたびに上半身の…下の部分が床に擦れて…」
飯塚少年は逃げ出した。そして部屋へ戻ると布団を被り、震えていたそうだ。
気がついたときには、夜に帰ってきた母親に起こされたところだったという。
「俺は、見てはいけないものを見たんだ。だってあれからもう20年は経っているのに」
飯塚は現在、不眠症と鬱に悩まされているらしい。淀んだ炭のような色をしている影がくっきりとある目は、どこか虚ろだ。
「梅雨になると、あの女が今の俺の家で壁を引っ掻く姿が夢に出るんだよ。…それが…毎年毎年…梅雨が来る度に寝室に近づいてくる…逃げられない…逃げられないんだ…」
やつれた様子の飯塚は頭を抱える。
「助けてくれ…」
掠れた声の飯塚は、縋るように私を見る。
お祓いなどは行ったのかと聞くと、どこへ行ってもこれは祓えないと言われたそうだ。
私も、首を横に振った。私は飯塚の話を聞いてやることしかできないと。
だが、飯塚は何故か笑った。諦めたようにため息をついたのは一瞬で、どこか晴れやかにも見える笑顔を浮かべた。
その様子を驚いて見ていた私に、笑顔に似合わない悲しげな声でこう告げた。
「もう、終わるんだ。苦しみから開放される。だってほら、その女はそこの壁にいる。…俺は起きているのに」
飯塚の頬を涙が伝う。衝撃で声を出せない私に最後に会えて良かったというと、伝票を持ち会計を済ませ喫茶店を出ていった。
私はまだ動けない。特別親しかった訳ではないが、それなりに交流はあった飯塚のあの姿と話は、私の体と心を硬直させるには容易い衝撃だったのだ。
やっとの思いで体を動かし、飯塚のあとを追うように店を出たのは数分後のことだった。
しかし、どこにも飯塚の姿はない。
降りしきる雨の中、店に忘れた傘のことさえ思い出す間もなく走り回った。駅の構内や駅の外も散々探し回った。携帯電話も繋がらない。
共通の友人に電話をかけ、事情を話すと駆けつけてくれたが、どれだけ探しても飯塚は見つからなかった。
あれから数年。飯塚はまだ見つからない。
飯塚の家族も探し回ったが、忽然と姿を消してしまった。
飯塚と最後に会ったあのショッピングモールも新しくなり、当時の面影はない。あの話を聞いた喫茶店は、飯塚と訪れた翌年になくなってしまった。
毎年、梅雨になると思い出す。
飯塚は、今、どこにいて何を見ているのだろうか。
本当に、苦しみから開放されたのだろうか。
私には、ただただ、飯塚の安らぎを祈る気持ちと後悔だけが残っている。
席を立ち去っていく飯塚の背中にしがみついてこちらを睨む、あの女の歪な顔と共に…。
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