それはそこにいる

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それはそこにいる

 西浦亜矢子(にしうらあやこ)が異変に気付いたのは、大学の授業が終わった帰りにそのままバイト先へ行き、くたくたになって家に着いた23時過ぎのことだった。  大きな異変ではない。けれども何かが変なのだ。2年も住んで見慣れた自分の部屋を、もう一度見渡す。やはり何かが変だ。  亜矢子は首を傾げながら、ようやくバッグを机の上に置く。無意識に音を立てないように歩きながら、夏用の薄手カーディガンをハンガーにかける為クローゼットへ近寄る。 「え?」  そこで亜矢子の動きが止まった。異変の正体を見つけたのだ。  亜矢子の目の前、クローゼットの扉が少し開いている。家を出るときに閉め忘れたのだろうか。しかし、思い返してもきちんと閉めたはずという結論に至る。  ではなぜ開いているのか。 「…まぁいいや」  本来なら、いろいろ考えたり確かめたりするのだろう。しかし、亜矢子は疲れ切っていて早く休みたかった。だからこの時は何も考えずにカーディガンをしまった。  気のせいだと言い聞かせ、クローゼットの扉をパタンとしっかり閉じる。あくびをしながら浴室へ行き、脱いだものを洗濯機へ放り込みながら、そういえばまだ何か変だったなと思い出したが、ここでもまた休みたい欲求が勝った。  シャワーを浴び、軽い食事のあと長い髪を乾かすのもほどほどにベッドへ沈む。重いまぶたと戦いながら、スマホで目覚ましをセットし充電コードに繋ぐ。そのまま亜矢子は眠りに着いた。  翌日。大学の授業が終わり、友人と近くのファミレスでパフェを食べながら昨日の事を話していた。 「それ、ただ朝閉め忘れただけじゃない?」  と言ってチョコレートパフェを頬張る友人、加藤優季(かとうゆき)に亜矢子は首を振る。 「そんなはずないの。ちゃんと閉めたよ」  苺を食べながら、優季の反応を待つ。 「だったら、扉が壊れてんじゃない?新しくたって家具は壊れるときは壊れるから。もし不安なら今日泊まりに行こうか?」  黒髪に派手な赤いインナーカラーがちらちらと見える髪型に少しパンクな服装を好む優季は、見た目で誤解されやすいが実はとても優しく乙女なところがある。亜矢子はそこが好きだった。 「そうかもね。今日帰ったら確認してみる。だから大丈夫だよ、ありがとう」  優季とは違い、明るい茶色に染めた長い髪をふわふわと巻いて、白いレースのトップスに淡いピンクのロングスカートというルックスの亜矢子は、その可愛さから男子にも人気があった。 「何かあったら連絡してね。すぐ行くから」  真剣な表情で言う優季に、亜矢子は素直に頷いた。  その後は楽しくお喋りしたあと、優季がバイトへ行く時間になり解散した亜矢子は、1人帰宅した。 「え…」  部屋に入るなり、また異変に気づく。クローゼットの扉が昨日よりも開いているのだ。それだけではない。クローゼットの中の服が、ごっそり下に落ちていた。ハンガーごと落ちているのを見て、何か外れたのかと確認するも、ハンガーごと服が落ちただけのようだった。 「なんで…?」  片付けようと一端服をベッドへ置く。ハンガーに綺麗に掛け直しながら、ふと気付く。  ベッドの向こう側、壁とベッドのすき間に何かあるようだ。恐る恐る近付くと、亜矢子はベッドの上で言葉を失った。  それは、クローゼットの奥にしまっていた冬用の上着たちだった。  今は7月。明後日から夏休みというタイミングだ。冬用の上着を出す理由も、出してきた記憶もない。  気味が悪くなった亜矢子は、スマホを手に取り優季にラインした。今日はピンチヒッターだからすぐ終わると言っていた優季に助けを求める。  3分ほどしてスマホに優季から電話があった。 「亜矢子?大丈夫?」 「ごめん。こっち来れる?」 「ん〜、あと30分くらい待てる?」 「大丈夫」 「じゃあ、下のお店で待ってて。一緒にご飯食べよ」 「わかった。ありがとう」 「ご飯楽しみにしてる。それじゃまた後で」  少しハスキーな優季の声は落ち着いていて、それだけで亜矢子は勇気が出る。  バッグとスマホ、鍵を掴むと亜矢子は家を飛び出した。玄関の鍵もきちんと閉め、エレベーターに乗って1階へ行く。  亜矢子が住むマンションは、亜矢子の父親が経営する不動産屋のもので、父親から大学合格のプレゼントとして今の部屋を与えられた。1階にはエントランスの他に小さな居酒屋が入っており、正確には隣のテナントとくっついているだけなのだが、ここのマンションの住人たちがよく利用している。  亜矢子が居酒屋に入ると、優しい女店主が迎えてくれた。今日はまだ開店したばかりなのでお客は少ない。 「亜矢子ちゃん、いらっしゃい。いつもの席空いてるよ」 「ありがとうございます」 「また優季ちゃんと待ち合わせ?」  亜矢子が頷くと、店主は優季ちゃんの分も用意しておくねと明るく笑う。  店の奥へ進むと小さな個室がある。隠れ家のようなこの居酒屋は、マンションの住人や近所の人達に密かに人気だった。  あまり酒が強くない亜矢子は、店主が好意で出してくれたノンアルコールカクテルを飲みながら、優季を待つ。  優季の言った通り、30分ほどして優季がやって来た。 「優季ちゃん、お腹の空き具合は?」 「もう腹ペコ」 「了解」  店主と親しげに会話したあと、店主が去ったのを確認してから優季が亜矢子に声をかけた。 「亜矢子、大丈夫?何があったの?」 「それが私にもわからなくて…」  亜矢子は、帰ってからの状況を説明した。話を聞いていた優季の眉間に皺が寄る。 「何それ?…それは怖いわ」 「でしょ?もしかして泥棒とかかな…」 「何か無くなってる?」 「わかんない…怖くて調べてないの」 「わかった。ご飯食べたら一緒に行こう」  丁度運ばれてきた食事を、亜矢子と優季は急いで平らげた。  優季がおごると言ってササッと支払いを済ませ、2人で亜矢子の部屋へ向かう。亜矢子は不安になりながらも鍵を開け、優季は臆することなく部屋へ入っていく。 「わ…これ…」  亜矢子がそのままにしてきた現場の状況を見て、優季も絶句する。 「ベッドの上の服、全部下に落ちていたの」  亜矢子が言うと、優季はベッドの上の服を手に取る。それから、ベッドと壁のすき間に詰められた冬用の上着たちを引っ張り出す。 「こんなふうに詰める意味ある?どんな嫌がらせだよ…」  ベッドと壁のすき間にギュウギュウに詰められた冬用の上着たちを、優季と亜矢子は協力して全部取り出した。 「でも鍵も掛かってたし誰かが入った形跡もないの…」 「それは見れば分かるけど…でもちょっと待って」  優季が何かに気が付いた。 「これ、どこにしまっていたの?」 「クローゼットの奥だけど…?」  強張った表情で聞く優季に怯えながら、亜矢子が答える。 「クローゼットの奥って、見た?」  優季の言葉に、亜矢子はハッとなり首を横に振った。 「私が確認する。亜矢子はここにいて」  亜矢子を庇うようにしながらクローゼットに近付く優季を、亜矢子が引き止める。 「亜矢子…。じゃあ、亜矢子はお父さんに連絡して。これは言ったほうがいい」 「わ、わかった…」  優季に促され、亜矢子は父親に電話をかけた。 「どうした?」  すぐに出た父親は亜矢子の様子がおかしい事を感じ取ったらしい。 「あのね…その…」  恐怖で言葉が出ない亜矢子を、優季が優しく抱き締めて亜矢子のスマホを受け取る。 「もしもし、おじさん?」 「おお、優季ちゃんか。亜矢子に何かあったのか?」 「亜矢子の部屋に今いるんだけれど、部屋が荒らされてたの」 「え!?今?」 「そう。おじさん、こっち来れる?」 「わかった。すぐ行く!」 「ありがとう。でさ、電話繋いでおいて」 「それは構わないけど…なぜだ?」 「今から、クローゼットの奥を覗くの」 「クローゼットの奥?」  優季は亜矢子の父親に状況を簡単に説明した。 「わかった。気をつけろよ?」 「うん。亜矢子、すぐに逃げられる準備しといて。何があるか分からないから」  ベッドに座る亜矢子に、優季は優しく声をかける。亜矢子は頷いて、バッグを抱きかかえ立ち上がる。 「行くよ?」  優季はそっとクローゼットの扉に手をかけ、閉まっていたもう片方の扉を勢い良く開けた。 「…っ!」 「えっ…」  開け放たれたクローゼットの中に見えたのは、がらんとした何もない空間だった。 「どうした?」  電話ごしに亜矢子の父親が心配そうに言う。 「何も…ない…」  優季がそう言ってクローゼットから離れる。 「何もない?」  父親の言葉に、優季が亜矢子を振り返る。 「ここに、その冬服が入れてあったの?」  優季の質問に、亜矢子が頷く。 「どうやら、服をクローゼットから出されただけみたい」 「それだけでもおかしいだろう。今、マンションの1階に着いた。すぐ行くからな」 「わかった」 「亜矢子は?」 「怯えてる。こんなの怖いに決まってるでしょ」  そうだなと父親が言ったとき、インターホンが鳴った。 「着いたぞ」  父親の言葉に優季が頷くと、亜矢子が玄関に走っていく。  ドアが開いて父親が駆け込んでくると、亜矢子は父親に抱きついた。 「お父さんも見ていいか?」  亜矢子は無言で頷く。 「おじさん、こっち」  優季が手招きする方へ父親は亜矢子を連れて歩いていく。部屋に入るなり、父親は顔をしかめた。 「なんだこれ…」  クローゼットを見て困惑する父親に、優季が説明を始める。状況を理解するにつれて父親の顔から血の気が引いていく。 「誰かが入った痕跡はないのか?」  見たところないと優季が言うと、父親は頭を抱えた。 「警察に通報しよう。亜矢子、いいか?」 「そうして、お父さん。私怖い…」  亜矢子の震える体を、優季が支える。  父親の通報で駆けつけた警察も、気味悪そうにしていた。  詳しく調べるからと、亜矢子と優季を部屋から出し、父親と警察だけが部屋に残った。 「お店にいよう。事情話して」  優季の提案に亜矢子は頷き、2人で1階へ戻った。  店主に優季が事情を説明すると、店主は快く奥の個室へ通してくれた。憔悴している亜矢子に熱いお茶を出し、優季にもお茶を出すと、ゆっくりしてと言って去っていった。 「なんなの…」  亜矢子がぽつりと言う。 「何か分かればいいんだけどね…。今夜はうちに来なよ。部屋帰るの嫌でしょ?」 「ありがとう優季…」  涙を流す亜矢子の隣に移動し、優季はそっと背中をさする。  その時、亜矢子のスマホに着信がきた。 「お父さん…」 「大丈夫か?」 「うん。優季が居てくれてるから」 「そうか…」  父親は何だか落ち着かない様子で息遣いも荒い。 「おじさん、何かあったの?」  優季がスマホを操作し、スピーカーにする。 「優季ちゃんも大丈夫か?」 「私は大丈夫だけど…。何があったの?」  父親はしばらく口をつぐんだが、先程の警察官と何か話したあと、恐怖をひた隠すように静かにこう言った。 「警察の人が…調べてくれて見つけた…」 「何を?」  優季が聞く。亜矢子は胸の前でぎゅっと手を握りしめた。 「それが…クローゼットの上…上に…」  優季と亜矢子が息を呑む。亜矢子の父親から告げられたのは、驚くべきものだった。 「赤ん坊の死体があった…1歳くらいの…」  亜矢子は口を手で覆い絶句していた。優季も流石に血の気が引いている。 「どうして…」 「わからん。警察の見立てでは恐らく死後2日は経っていると…誰かが亜矢子の部屋に隠したらしい」 「いやぁ…!」  亜矢子が泣き出した。優季は亜矢子の背中をさすりながら、父親に言う。 「亜矢子は、今日はこのまま私の家に連れて帰るね」 「すまない。優季ちゃん、亜矢子を頼む。」 「わかってる。何かあったら連絡して」  父親はもちろんと言ってから、電話を切った。 「二人とも、大丈夫?」  店主が様子を見に来て声をかけた。 「大丈夫です。お茶、ありがとうございます」 「いいの。それより、私に何かできることがあったら言ってね。あなたたちは私の大切なお客様であり娘みたいに思ってるから」  店主の言葉に亜矢子と優季が微笑む。優季は亜矢子を支えながら店を出た。  それからしばらく、亜矢子は優季の家で呆然と過ごしていた。  亜矢子の家から見つかった赤ん坊は、亜矢子が最初に異変に気付いたその日に、既にクローゼットの中にあったことが分かった。つまり、亜矢子は一晩赤ん坊の死体が隠された部屋で寝ていたのだ。  というのも、事件の犯人は早々に捕まったため全貌が明らかになったのだ。  犯人はなんと、あの居酒屋の女店主だった。  マンションの住人の鍵から合鍵をつくり、客の中から親しい人物の行動パターンを知り尽くし、時々部屋に入ってはプライベートを覗いていたらしい。ところがある時、女店主の娘が生まれたばかりの赤ん坊を連れて戻ってきた。娘は産みたくなかったと涙ながらに訴え、店主に助けを求めたそうだ。店主はそんな娘を可哀想に思い、なんと赤ん坊を殺してしまった。そして娘に内緒で隠せる場所を探したところ、丁度その時間に家に居なかった亜矢子の部屋へ侵入し、クローゼットの中に赤ん坊を隠した。  ところが、ただクローゼットの服の奥に隠しても見つかるだろうと思った店主は、天井裏へ隠すべくもう一度侵入し、冬服を全て出して天井裏へ隠した。その姿を、偶然娘に見られてしまったのだと言う。慌てた店主はなんと娘も殺してしまった。その娘を隠すために、亜矢子の冬服をベッドと壁のすき間に詰めたと白状した。  その供述をもとに警察が捜索すると、亜矢子のベッドの下、壁際に押し込まれる形で冷たくなっている娘の遺体も発見された。  それを知った亜矢子はさらに心を病み、大学を休学して優季の家でゆっくり静養することになった。  親友以上の強い絆で結ばれた優季と亜矢子は、亜矢子の両親や優季の両親の支援を受け、二人で生きられるよう亜矢子の心の回復へ全力で取り組んだ。  店主は殺人と死体遺棄の罪で捕らえられ、それなりの罰を受けることが決まった。  亜矢子を巻き込んだことについては、自分の娘によく似ていて、自分の娘と亜矢子を重ねて恨んでしまっていたと告白した。そして誠心誠意、亜矢子に対して謝罪をし、優季や亜矢子の父親にもきちんと対応した。  こうしてこの事件は幕を閉じたが、警察も亜矢子の父親も、優季と亜矢子には隠し通したことがあった。  それは、赤ん坊の死体が発見される前日、亜矢子が帰宅したときに実は店主がクローゼットの奥に身を潜めていたということ。  亜矢子はバイト先でいつも食べる夕食を、あの日は食べずに家に持って帰ったため、いつもより早く帰宅したのだ。しかもシフトが30分早く上がりだったため、合計1時間も早い帰宅だった。  それは店主にとって予想外のことであり、じっと身を潜めるしかなかったのだ。  あの時、亜矢子がクローゼットを全て開け放ち、奥に目を向けていたらどうなっていたのだろうか…。  それはきっと、誰もが思い至る最悪の結末になっていたかもしれない。
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