偽装結婚の終わり

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「駅で出会った時にそう教えてくれたら良かったのに。あんな風に声をかけるなんて、失礼です」    私は思わず不機嫌な声になる。仮に私に恋をしていたというのなら、一年という期間はなんなのだ―― 「必死だったんだ。君が結婚を焦っているのかもしれないと知って居ても立ってもいられなくて──」 「確かに、焦っていましたけど……私のことを気にしてくれていたなら、花屋に会いに来てくれたら良かったのに」  そうやって少しずつ仲良くなっていたら、こんな形の結婚はせずに済んだかもしれない。 「花屋に行けば君には会えるだろうけど、そういうストーカーみたいなことはしたくなくて……三年経って駅で偶然見かけたときは、花屋のエプロンなんか着けていなくてもすぐにわかった。その君が、思いつめた顔であんなポスターを見ているから……でも初めは失敗したなと思って、後日花屋に行ったんだよ」 「どちらにせよ失敗です」 「君に承諾してもらえたから失敗じゃないよ」 「失敗です!」  そう言い切ると、冬馬さんは苦笑いをしながら耳を触る。これも冬馬さんの癖。困ったときの癖だ。  少なくとも、私は冬馬さんとあんな出会いはしたくなかった。もっと、別の出会い方をして、互いに好きになって、きちんと付き合って、それから結婚したかった――だけど、仕方がなかった。私には式を挙げるタイムリミットがあったから。 「好きな色はオレンジじゃなくて青。リンゴの皮が食べられないこと。意外と頑固で涙脆い。虫が苦手。好きな花はネモフィラ。そして、江ノ島から見るこの景色がとても好きなこと──一年過ごして、君のことを知って、君のことを好きになるばかりだった」 「嘘。いつも一緒にいるのにどこか違うことを考えているようだったわ」 「それは、君に惹かれていることを悟られたくなかったんだ。君が僕のことをどう思っているのかわからない。僕の想いが重荷にならないようにと思って──僕の方がずっと年上だし、必死に余裕な振りをしていただけなんだけど……」  なんてことだ。そんな分かりにくいことをしないでほしい。私ばかりが冬馬さんのことを好きなのではないかと無駄に苦しんだではないか── 「もうすぐ僕たちの結婚生活は終わりだ――」  互いに細い糸を撚り合うような日々が、終わる── 「そんなの――」  嫌だ。冬馬さんと別れたくない。このままずっと夫婦でいたい。冬馬さんの好きなものを食卓に並べて、苦手なお酒も少しだけ飲んで、一緒に映画を見て、たわいない話をしたい――  言わなければ、別れたくないって── 「偽装結婚はおしまいにしよう。君に、改めてプロポーズをしたいと思う」  驚きのあまり、私が目を見開いたのと、冬馬さんが私の手を取ったのが同時。 「咲さん、君のことが好きです。僕と結婚してください」  私の指に、星のように輝く指輪が乗せられる。花冠の細工が彫り込まれた精巧な作りの指輪―― 「これ――」 「受け取ってくれるかな? 前のは急ごしらえだったからきちんとしたものを用意したくて。デザインから時間をかけてこだわったから、休日も仕事だって嘘をついて――」 「ひどい、サプライズが過ぎます。家に居たくないのかと思っていました」 「そんな馬鹿な。僕はずっと、君と一秒でも長い時と空間を共有したいと思っているのに」 「言葉にしてくれないとわかりません」  それもそうだね、と彼は笑う。私の好きな優しい笑顔で── 「僕は、君が好きです」  目頭が熱を出して、ポロポロと涙が零れ落ちる。 「私も、あなたのことが好きです――」  少年のような顔で喜ぶ冬馬さん。 「さぁ、今から本当の夫婦を始めようか」  少しずつ少しずつ、丁寧に糸を撚るように、これからも一緒に一日一日を紡ぎましょう。  私たち、本当の夫婦、はじめました。
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