偽装結婚の終わり

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 冬馬さんは駅ではなく、駅前のパーキングへと向かった。 「車で行くんですか? 電車じゃなくて?」 「うん、僕は車の運転が好きなんだ」  知りませんでした――だからわざわざ車を持っているのか。都内に住んでいると、自家用車の必要性を感じない。維持費はバカにならないし、道が狭く一方通行も多いので、自転車の方がずっと早い。仕事でトラックを運転することはあるけれど、自分の車は持っていなかった。  青のコンパクトカーに乗り込むと、冬馬さんはエンジンをかけた。心地よいエンジン音が響く。交通量の多い道路を進みながら、冬馬さんはぽつりぽつりと自分のことを話し始めた。 「僕の生まれは千葉の田舎で、生活に車は欠かせなかったんだ」 「あれ、でもご両親は東京の人だって……」  結婚式の日に言っていませんでしたか? 「うん。僕は養子で――実の両親を事故で亡くして孤児院にいたんだ。今の両親に引き取られたのは不思議な縁で……両親には子供ができず、僕を引き取った。僕は優しい両親に育てられたよ」 「そうだったんですね……」  冬馬さんのご両親はお年を召していた。それこそ私のおじいちゃんと変わらないくらい――冬馬さんの年齢を考えても、ずいぶん遅くに生まれた子なんだと思っていたけれど、そんな事情があったとは── 「僕は小学四年生だった。幼い子の方が引き取り手があったから、僕はいわば売れ残りで……」  なんと言ったらいいのかわからず、私はじっと冬馬さんの話に耳を傾けていた。生活を共にするにつれて、少しずつ冬馬さんのことを知っているつもりになっていた。好きな食べ物、苦手な食べ物。洋服の好みや、好きな映画のこと。一つ一つ、知り得たことを紡いで、いつの間にかなんでも知っているような気になっていた。だけど実際は、一年共に過ごしてきたというのに冬馬さんのことをほとんど知りもしないのだ。 「仲の良い子がいた。僕より一つ下で、妹のようだったけど、互いに淡い恋心を抱いていたのだと思う。大人になったら結婚しようなんて約束してさ──彼女は僕がもらわれた後もずっと孤児院に残っていたから、独り立ちしたら迎えに来ようと心に決めていたよ。まだ何もできない子供のくせに――」  赤信号で止まる。前を見つめる冬馬さんの顔は、目の前の赤信号ではなくて、もっと遠くを見つめているように見えた。あぁ――やっとわかった。 「冬馬さんは、ずっとその人のことを想っているのですね……」  今でも――。言葉にしてみると虚しかった。所詮私とは一年の偽装結婚。結婚相手は誰でもよかった。私が、たまたまそこにいたから結婚に至っただけ。そんなのお互い様ではないか。  初めからわかっていたことなのに、今更どうしてこんなにも心が痛いのだろう――息ができないくらいに苦しい。  冬馬さんには、他に想う大切な人がいる――
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