偽装結婚の終わり

8/10
前へ
/10ページ
次へ
 信号が青に変わると、冬馬さんはゆっくりとアクセルを踏んだ。しばらく無言で走り、またぽつりと話し始める。いつしか、車は鎌倉まで来ていた。パーキングに停めて、車内から出る。  空は半分暗くなっていた。一番星が低い場所で輝き始めている。 「江ノ島まで少し歩こう」  冬馬さんがそう言って海に向かって歩き出したので、私も後を追う。橋に差し掛かると風が強く、あおられそうになった。冬馬さんは私の風上を歩いてくれる。さりげない優しさが、今はとても苦しい。 「彼女に再会したのは十年前。彼女も東京に出てきていた。僕を追いかけて来たのだと言って――とても、嬉しかった」  その人は今――そう聞けるような立場に私はいない。私は、冬馬さんにとって赤の他人だ。本当の家族でもなく、想う相手でもなく、友人ですらない―― 「十年前に僕は彼女にプロポーズをした。ちょうどこのくらいの季節、あの日は雲っていてさ、天気に嫌われた」 「では――どうして……」  言葉が続かない。私は零れ落ちそうになる涙を必死に飲み込む。自分が惨めでたまらなかった。そうか、私は――冬馬さんに恋をしているのだと、一筋零れ落ちた涙と一緒にようやく気が付いた。  冬馬さんの好きな食べ物を作るのも、好きなネクタイの柄や色がわかるようになったのも、好きな映画や音楽や、苦手な食べ物。照れたときに首筋を撫でる癖を知っているのも――全て、私が冬馬さんのことが好きだから。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

121人が本棚に入れています
本棚に追加