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「はーい!」
愛想の良い声で返事をしてから、真紀は即座に声を潜めて再び「眼光鋭く」囁いた。
「とにかくさぁ、手を抜きたくないって気持ちはわかるけど、相手のことも考えてあげなよ。うちの会社にとって一番大事なのは、とにかく印刷機を回すことなんだから」
印刷機。新人時代に訪れた整然とした工場を思い出す。整い切ったその気配だけでなく、あまりの大きさに驚いた。セットされた巨大紙が瞬時に印刷物として吐き出されていく。私が知っていた「印刷機」とはまるで別物で、未来に閉じ込められた気分になった。そのとき生まれたあまりに大きな距離感は未だに私を圧倒している。
「わかってるんだけどねぇ。あ、ねぇ、ところで秋刀魚に似合うのはピンクだよね? オレンジじゃないよね?」
「私の話、聞いてた? まぁ、ピンクだけど。杉本さんもさぁ、工場とうまくやること優先して、ガツンと言わないとこあるじゃん。そこはもっと頑張れよって私としては思うけどっ」
真希は綺麗な眉をしかめて、強い語尾をひきずったまま杉本課長の席をちらりと振り返る。遠慮のない強い視線。まっすぐな真希は上司にも容赦しない。会議で杉本課長や部長たちに食ってかかる真希を見てどれだけハラハラしたことか。はじめは何だあの生意気な奴、と言う目で見られていた真希だけど、今では誰もが認める実力者だ。
「ほんと、真希と課長は最高の組み合わせだよ」
真希が「えっ」と動きを止めた。ゴクリと喉を鳴らして恐る恐る私の顔を覗き込む。
「……そんなことないでしょ?」
あれだけ遠慮のない口撃を課長にふりまいておきながら、自覚がないのか。
「そんなことしかない。完全に部会の名物。真希が課長とやり合うのをみんな結構楽しみにしてるんだけど」
「あ、なるほど、そうね……」
ホッとしたように真希が息を吐く。
「そうね……」
彼女にしてはぼんやりとした口調でもう一度つぶやくと、「あのさ、」と囁く声の上目遣い。珍しいほどの自信なさげな表情だ。
「何?」
「うーん」
考えをまとめるように肩にかかった髪を指先にくるりと巻き取りながら続ける。真希も何か悩ましい依頼を抱えているんだろうか? 私もそろそろ秋刀魚のことを忘れたい。真希の相談にのるのは渡りに船だ。
「何? 何でも聞くよ」
「あのさ、今日の夜、時間ある?」
「夜? 今日? 多分大丈夫だけど?」
「うーん。ちょっと、伝えておいた方がいいかなって」
いつも物怖じしない彼女が言いづらそうに口を閉じ、彼女の頬はほんのりと赤らんでいる。
あれ、もしかして?
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