3/3

22人が本棚に入れています
本棚に追加
/64ページ
 身を乗り出した私を遮るように真希を呼ぶ声が飛んでくる。 「佐々木さーん」 「あ! ごめんなさい。今行きます。とにかく夜、空けておいて。急で悪いんだけど。……だから、つまり、ちょっと、紹介したい人がいるッ」  最後だけとんでもない早口で言い切りそのまま走り出した真紀を見送りながら考える。紹介したい相手っていうのはやっぱりそういうことだろうか。  真紀はモテる。本人だって否定しない。だけど、特定の相手のことはこれまで聞いたことがなかった。そういう素振りも見せないサバサバとした雰囲気だったから……、うっわぁ気になる。気になるけれど、今は仕事に集中。  真希のことも秋刀魚のことも忘れて次に行こう。  目を閉じて、すっと息を吐く。  良くも悪くも感情に左右されないように自分の気持ちを落ち着かせてから次の仕事に取り掛かる。話題に上がったばかりの色見本。「夏旅」をテーマにしたポスターに使われる色の「10回目」の最終チェック。うん。気になっていた表現がぐっと良くなっている。  ポスターには空が描かれている。小さな紙の上の空。良くある絵柄だけで、すごく難しい。大抵はのっぺりとした青一色といった感じがして深みがない。そこを乗り越えたくて工場に無理を言った。おかげで、深い奥行きを感じる色に仕上げてくれた。  できるだけ遠くにポスターを掲げながら目を細めて見る。実際に使われる場所で、ふいにこの色が目に飛び込んできたら何を感じるか。今回は駅の構内やショッピングセンター。ちょっと疲れた気分で歩いていて、ふっと顔を上げた先に空が広がっている。日常の向こうに開く扉。 「よしっ」  思わず声が出てしまうくらい順調に空が見えた。これまではこうはいかなかった。ただのっぺりとした絵があるだけで、どこかに行きたいという気分なんて微塵も湧かなかった。これなら自信を持ってクライアントに提示できる。  今すぐにでもこの見本を見せにかけ出したくなった。  これだという色を見つけた時の、この瞬間のどうしようもない喜び。色が逃げるわけないのに、早くこの色を捕まえたくてウズウズする。息苦しいほどなのに、忘れられないほどクセになる。  色が見える、と友人に言うと「だから何?」と大抵首をかしげられる。世の中の色が目に見えることはそれほど特別なことだとは思われないようだ。色の気持ちがわかる、と言うと「へぇ〜」と曖昧に微笑まれる。もっと上手い表現を見つけないと友人をなくすかもしれない。そこで色を見るのが好きだから印刷会社に入社した、と言うと「夢が叶ってよかったよね」と軽やかに言われる。   夢。  私にとって夢というその言葉が持っている響きは甘さだけではなくて、どろりと重い苦味も含む。  苦味の中には何が混ざっているのか。  多分、挫折。
/64ページ

最初のコメントを投稿しよう!

22人が本棚に入れています
本棚に追加