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 子供の頃から絵を見るのが大好きだった。写真集でも、美術本でも、旅行本でも。ページをめくるたびに飛び込んでくる色鮮やかな世界に夢中になって何時間でも同じページを眺めていることができた。 「お前は本当に本が好きだなぁ」  親はそんな風に思っていたけど、兄は違った。 「織子の好きなもの見せてあげる」  兄がそう言って、私の手を引いて向かったのは祖父の小さな印刷所の片隅だった。大人たちに禁止された場所に忍び込み、こっそり手に入れた暖かな紙を空に掲げてふたりで覗き込んだ。  そこには、見えない世界の色が見えた。  生まれたばかりの色は艶やかで豊かだった。  それが私の好きなものだった。  まだ自分のスマホもタブレットも持たなかった頃、私の世界は祖父の仕事場から生まれていた。見たことのない場所の見たことのないものが、胸が踊るような色彩に包まれて印刷機からはき出される。そしてそこから世界に色を届けるために飛びだって行く。幼い頃の私は本気でそう思っていた。  おじいちゃんみたいな仕事がしたいね。そんなことを兄と二人でこっそり話したのはいくつの頃までだったか。思い出せないくらい遠い記憶。夢を憧れの状態のままに過ごした私と違い、兄はしっかり自分の道を模索し続けていた。 「僕のデザインした本をいつかおじいちゃんに印刷してもらいたい」    兄が美大の入学を報告した日、祖父は見たことがないくらい破顔した。 「そういう形だったら大賛成だ」  進んでしまった兄の背は、走って追いかけるには遠すぎた。  祖父は強くうなずいて笑った。 「楽しみに待ってるからな」  果たせなかった約束は懐かしさと切なさの間を行ったり来たり。 心のどこかがキリリと痛むような切なさが生まれた時、思い出はより愛おしくなる。
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