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08 藤井千紘
「あれ、藤井さん電話終わったんすか?」
千紘がベランダから室内へと戻ると、鳥居がペットボトルのウーロン茶をグラスに注いでいる所であった。二つの内、真新しい客人用のグラスを受け取ると、床に胡坐をかいて座る。程良く散らかっている鳥居の部屋は、遠慮しなくて良い空気感があって楽に感じていた。
千紘が煙草を取り出すと、すかさず鳥居がライターを取り出して火を点けた。
「あぁ…折角会ったんだし、あいつに探ってもらおうと思ってな」
千紘の冷めた言葉に、鳥居はうんうんと頷いて見せる。そこには相手を蔑視する驕り高ぶった感情が見え隠れしていた。
「昔から使い勝手が良い奴でしたからねー」
「あいつ、年取って丸くなったのか? 昔はこんな従順じゃなかったけどな」
「俺も卒業以来なんで…でも確かに変でしたね。あの当時、俺達の事殺すぐらいの勢いで睨んでたっていうのに」
鳥居はさして興味無さそうな顔をして、スマホのゲームに熱中していた。
その態度が楽観的に映り、千紘は苛立った。今までの仲間や玲士の失踪を知って尚、自分にはまだ赤い封筒が届いていないからと他人事で過ごせるその無神経さが癇に障る。
-大体俺や玲士より、甘い汁だけ啜っていた鳥居みたいな奴らの方が恨まれるべきだろ。殺されたのか、生きてて拉致されてんだか知らないけど、こんなの割に合わねぇよ-
千紘の中で、これが人的な恨みで起きている事なのか…それとも霊的な呪いで発生した出来事なのか判断出来ないでいた。玲士が言った『何度も死んでいる』という言葉をそのまま受け取るのなら霊的なモノが絡んでいるのだろうが、錯乱状態といった様子の玲士の言葉を鵜呑みにするのも心が拒否していた。そこには玲士を信じたくない、というよりも…対処出来る人間相手であって欲しいという願望が大きく含まれている。
「俺思ったんスけど~…」
視線をスマホに置き去りにしたまま、鳥居は呟くように言った。
「何に対しての恨みなのかなーって。薬使って女輪姦した事? 避妊なんかしなかったし、デキちゃった女も居たらしいっスよね。こっそり産んだ女も、流したって女の噂も聞いた事あるけど、子どもに対しての恨み? それともやっぱり…」
「うるせぇっ! それ以上言うな!」
鳥居が次に何を言うのか分かっていた千紘は、声を荒げて遮った。元より気の小さい鳥居は肩を震わせて黙り込み、シンとした空気が辺りを包んだ。そして次の瞬間には壁から大きく“ドンッ”と叩く音がする。嫌そうな顔をした鳥居が、上目遣いに「この部屋壁薄いんで~…」と小さく言う。
卑屈そうなその表情がより癇に障り、千紘はその場で横になり、頭の後ろで手を組んで枕代わりにした。
「もう寝る」
「あ、藤井さんベッド使っていいすよ?」
「お前の匂いする布団で寝れるか」
溜息を吐く音が耳に届く。
-こいつは昔っからこうだ。下僕のフリして誰よりも苛立たせる。
…大体、お前が元々は矢口悠也の取り巻きだった事。
俺は忘れてないんだぞ、鳥居…-
あっさりと玲士と千紘に鞍替えしたその下っ端精神が、時折誰よりも腹立たしい存在になり、信頼出来なくなった。そんな事をお構いなしに尻尾を振っていた鳥居は図太い人間なのだろう。玲士は大雑把な所があったから鳥居と上手く付き合っていたが、二人っきりだとこんなにも目につくのかと千紘は目を瞑りながら苛立ちを呑み込んでいた。
やがて鳥居が動く気配がし、室内の明かりが落とされた。寝る事にしたのかと、横になっているだけの千紘は寝返りを打つ。他人の部屋の、床の上。あまり寝付きの良くない自覚がある分、今夜は徹夜かもなぁと諦めの心境で暗闇を眺めていたその時であった。
ドンッ
何かを叩くような轟音が室内に響き、千紘はヒュッと息を呑んだ。先程と同じ方向から聞こえ“まだ隣の奴が怒っているのか?”と訝しむ。あれから静かにしてるっていうのに、性格悪くないかと感じた。
ドンッドンッドンッ
隣人に対するそんな気持ちも、一瞬で消え失せた。今度は玄関の扉が叩かれている。そして寝ている千紘の頭の先、先程とは反対側の壁からも殴りつけるような音が響いている。あまりにも異常だった。一瞬怒鳴り声が聞こえたからって、両隣の隣人がこんな風に怒り狂っているとは思えなかった。やがて振動は寝ている床からも聞こえてくる。四方から飛び交う轟音に堪らず飛び起きようとする千紘だったが、身体は何かに縛られているように身動きがとれなかった。何とか首だけを動かし、鳥居も怯えているのかと頼りない夜目を細めるが…穏やかな寝顔があるだけだった。こんな轟音の中でも何故か鳥居の寝息はよく聞こえ、千紘は自分が知らない間に眠っていて悪夢を見ているのかと思いたくなった。
ダンダンダンダンダンダンッ
バンバンバンバンッ
-目を瞑って、何も考えなければ夜が明けてくれる…-
耳を覆いたくても、手は自由が利かずに動かない。轟音を無視するように固く瞼を閉じていると、今度は音が一斉に鳴り止んだ。
-終わった…のか…?-
安堵の溜息を吐くが、未だ身体は金縛りに遭ったように動かない。けれど音が無いだけ大分快適だと、千紘は平静になろうとしていた。相変わらず空気を読まない鳥居のイビキ混じりの寝息が妙に安心感を与える。
ガラッ…
静かに開くガラス戸の音に、千紘はギクリと身を竦めた。その音はつい先程聞いた、ベランダの戸を開閉する時の音であった。
-鍵を閉め忘れた…? いや、俺は間違いなく鍵をしたぞっ?!-
外から侵入してきたそのナニカは、室内を徘徊するようにペタリ…ペタリ…と音を立てて歩いている。裸足で、爪先から踵までしっかり地面に足をつけて歩く、ねっとりとした足音であった。先程まで安心を生んでいた鳥居の寝息は、いつの間にか聞こえなくなっている。何が起こっているのか、千紘はとうとう瞼をゆっくりと開いた。
暗闇の中でぼんやりとナニカが白く浮かび上がっている。何かを探すように、その影はゆっくり、ゆっくりと歩いている。本能的に、気取られてはいけないと脳が警鐘を鳴らした。肺が苦しかったが、鼻も口も息を止めてその影の動向を伺った。
白い影はやがてゆっくりと玄関の方へと歩いて行き、その瞬間…限界を迎えていた千紘はふーっと息を吐きだした。
刹那、頭上から『見つけた…』と声が聞こえ…
ビタンッ
千紘の身体目掛け、天井から影が降ってきた。
「…っ!?」
『悪い男だね…』
暗闇で白く浮かび上がった影は、艶めかしい唇から長い舌を突き出し…声を失っている千紘を締め付けるように身体を絡ませていた。巻き付けられた腕が、千紘の身体を軋む程の力で締め上げている。
「ぐ…ぐぐぅ…」
言葉にならない声が、千紘の喉元から漏れていく。
やがて意識を手放した身体に、影は更に巻き付くように這っていた。
『…まだ、死なせない…』
影はクスクスと笑いながら、千紘の頬を撫でるように舌を這わせた。
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