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「藤井さん…藤井さんってば、大丈夫っスか?」
「……え…生き、てる…?」
少々手荒なぐらいに肩を揺すっていた鳥居は、目を開けた千紘に苦笑いを浮かべている。「生きてるって、どんな悪夢見てたんですか」と呆れを含んだ声に、千紘は少しずつ生きている実感が湧いてくるのだった。身体の自由は戻っている。起き上がると呆然と室内を見渡した。昨夜の出来事が起こる前と、特に何ら変化は無い。千紘は憮然とした表情で鳥居を見た。
「お前は何も聞いたり見たりしてないのかっ?!」
「…えぇ? 藤井さんさっきから何なんすか」
肩を掴んで必死の形相をしている千紘に、鳥居は若干引いた表情を浮かべていた。千紘が昨夜自分の身に起きた事を詳細に話せば話す程、鳥居の表情は曇り、陰っていった。肩を掴んでいる千紘の腕を外すと、不機嫌を隠さない態度を見せた。
「いい加減にして下さい。俺、ここに住んでんすよ? ベランダから人影が入って来たとか、洒落になんないんですけど。確かに昨夜壁殴ってきた部屋は隣人いますけど、反対隣は今空き部屋なんで叩く人間なんかいないんですよ。怖い夢見たからって、俺の部屋に変な言い掛かりつけないで下さいよ」
怖い夢。小さい子どもを馬鹿にしているかのような鳥居の言葉に、カッとなった千紘は思わず伸びた腕で鳥居の胸倉を掴んだ。あまりの勢いに鳥居は一瞬怯んだ顔をしたが、奮然として自分も千紘の胸倉を掴む。掴み合ったまま睨み合うと、やがて鳥居は吐き捨てるように口を開いた。
「大体、俺達サークル会員が失踪してるのは幹部の責任じゃないっスか!
どの女の恨みなのか知らないっスけど、原因作ったのなんて小川さんと藤井さんでしょ?! 俺達は巻き込まれただけですよ、あんた達の悪ふざけに…!!」
その瞬間、今まで千紘が鳥居に対して抱いていた沸々とした怒りが限界を迎え、右手で殴りつけていた。ガツン…と鈍い音が鳴り、倒れた込んだ鳥居は怒りと恐怖の混じった表情で千紘を見上げている。その視線が昔も誰かに向けられた視線だったような気がして、千紘はたじろいだ。恨みがましく、粘着なその視線を自分に向けていたのは誰だったか。鳥居の形相に足が自然と後ろへ下がり、額に汗が滲んだ。
『…横暴で、残酷で、嗜虐心の塊みたいな奴。心から詫びて見せろよ…』
口元は動いているが、とても鳥居の言葉とは思えない声調であった。地の底から響いてくるようなそれは、声と言うよりも音に近かった。千紘が視線を上げると、鳥居は白目を剥きながら首をカクカクと上下に動かしている。さながら絡繰り人形のような動作に、千紘は玄関へと走った。背後からは鳥居の口を通じてぶつぶつと呪文のように恨み言が聞こえてくる。
『…楽には死なせない。楽には死なせない。楽には死なせない…』
「冗談だろ…!?」
身に迫ってくるような言葉に、千紘は鳥居のアパートを飛び出した。階段を駆け下りて、そのまま路地を抜けて走る。
追って来る気配は無かったので一度立ち止まると、鳥居のアパートを見上げた。部屋の前で手摺りに手を掛けた鳥居が、ジッとこちらを見ている。虚ろな瞳でジィッと見つめた後、ケタケタと手を打って笑い出した。かなり距離は離れたはずなのに、耳元では笑い袋のような鳥居の狂った笑い声が聞こえている。鳥居と出会ってから初めて、千紘は鳥居に対して恐怖心を抱いていた。
「くそっ…何なんだよ…!」
踵を返して走り出すと、千紘は二度と振り返らなかった。
◇◇◇
「はぁ…はぁ…」
鳥居のアパートからどれだけ走っただろうか。足が棒のように感じ、塀に体重を預けて座り込むようにズルズルと地面に崩れていく。汗が止め処なく流れるが、拭う気力すら無かった。ここが道でなければ大の字になって寝転んでしまいたい、千紘は整わない呼吸を肩でしながら項垂れた。落ちた汗が地面に点々と染みを生んだ。
「もし…大丈夫かい?」
千紘が顔を上げると、袈裟姿の僧侶が目を細めて見下ろしていた。身体を預けていた塀を眺めると、寺の囲いであった。まともな人間に会って、千紘は緊張の糸が切れたように倒れ込む。慌てて駆け寄った僧侶は難しい顔をして言葉を絞り出した。
「難儀な青年よのぉ…。背負い切れぬ業をこうまで背負い込むとは…悪い事は言わん、少し本堂で休みなさい。このままフラフラしていたら命を削るだけじゃ…」
憐れんだその声に、千紘は素直に首を縦に動かした。普段の千紘であればこの住職を利用して災厄を払おうだとか考える所であったが、不思議とそんな気持ちも湧かず、促されるまま寺の門を潜る。
少しだけ身体が軽くなったのは気の所為なのか、一瞬何かが身体から抜けたのか。千紘には答えを導けそうには無かった。
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