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本堂へと案内される道すがら、千紘は菩薩と思われる寺の若い坊主数名とすれ違った。そしてこの状況が自分の考えている以上に不味い事態な事を悟った。顔に出さないよう精神修行している彼らでさえ…一様に目を剥いたり、頬を引き攣らせたり、分かりやすく目線を落としたりしている様を見て、彼らには一体何が見えているのだと背筋に悪寒が走るのを感じた。
住職に目で促されるまま、千紘は御前座布団に座った。何年もした事が無かったが、自然と膝を折って正座になる。この後はどうすればと目の前の住職を見たが、彼は座禅を組んだかと思うとそのまま瞼を開かない。
-瞑想してるのか? 俺はどうすれば…-
千紘は静寂に置き去りにされた心地になったが、不思議と嫌な感じはせず、自分も瞼をゆっくりと閉じた。それから暫くの時間、ただ聴覚のみを働かせていた。微かに聞こえる鳥の声や、子どものはしゃぐ声が耳に届く。それが何故かもう二度と聞けない平穏な音に思え、気付けば薄く開いた瞼からは涙が零れていた。いつから眺めていたのか、正面の住職は真っ直ぐ千紘を見据えている。その視線の鋭さに、思わず身を竦ませた。
「…あなたは自分の置かれている状況がおおよそ分かっているようだね。ここまで複雑に絡み合った呪詛を、わしも初めて見たよ」
静かな中にも凄みのある声に、千紘は小さく首を頷かせた。
「絡み合ってるって…特定の奴一人の呪いって訳じゃ…」
「むしろ核となっているモノがあり、他の負の感情を引き寄せている。大きな大きな塊になって、少しずつ君を蝕んで喰い尽くそうとしているようだ…その核が何なのかを、あなたが理解しないといけない。わしには黒い感情の塊にしか映らないからのぉ…何か心当たりはないのかね?」
それきり、住職は口を噤んでしまった。視線がずっと背後を見ているようで、千紘は肩をぶるりと震わせる。都合良く、されるがままにお祓いをしてもらえる事を内心で期待してしまった分、落胆が大きかった。いくつも自分を呪っている存在がいるのは納得する事実ではあったが、誰が、何が一番自分を呪っているのかなんて自分が一番知りたい所だった。
そんな事を考えている千紘に対し、住職は「…まぁ、分からんじゃろうなぁ」と呟く。
「それがすぐに分かるようなら、ここまで呪詛も複雑にならんかったろう。
…わしもこの歳じゃ。今まで人の恨み辛みは散々この目で見てきたし、呪いに喰い尽くされる人々も見てきた。中には何の落ち度も無く、逆恨みやとばっちりを受ける人々もいる。…隠さず、答えなさい。あなたはどちらなのかな?」
ゴクリと緊張で唾を呑み込んだ千紘に、住職は視線を逸らさずに真正面から問い質した。一瞬、正直に自分のしてきた事を語ってしまったら助けてもらえなくなるのでないかと保身の気持ちが生まれたが…この質問に嘘偽りは意味が無いのかもしれないと思い直す。重い唇をそろそろと動かした。
「俺は…学生時代に仲間とつるんで色々悪さをしていた。若気の至りもあったけど、中には取り返しのつかない事もあった。恨んでいる奴は多いと思う。…心当たりが多過ぎて分からない」
「…なるほど。自覚はあっても難しい事もあるのぉ。あなたには自分を見つめ直す時間が必要なのかもしれない。…ここの離れに魔除けの札を施すから、その中に籠って自分の一生を思い出しなさい。生まれ、育まれ…記憶のある限りの今までを全て。その中で思い至る存在があったら、名を口にしなさい。それが今のあなたに出来る全てじゃ…」
住職の哀れみの言葉に、千紘は「分かった…やってみます」と小さく言葉にした。気配を消す為に必要だと、衣服を全て脱ぎ…白装束を着せられた。勿論スマホ等の私物も預ける事になり、千紘は身一つで離れの中に入る。
戸を閉める際、外から住職が声を掛けた。
「一晩、このまま籠りなさい。戸の外に誰かが来ても、中で何かが起こっても…それはあなたを外に誘う為のものじゃ。絶対に開けんようにの…」
その言葉が遠ざかり、千紘は必死で自分の記憶を手繰り寄せながら幼少時代を思い出していた。自分を呪っている存在が幼少時代にいるとは思えなかったが、住職に言われた通り…記憶に残る一番古い記憶、幼稚園ぐらいの自分から思い出していた。目を瞑って視界を遮断すると、体感温度がスッと下がった気がして焦るが、目を開く事の方が怖かった。
外は陽が落ち、カラスが鳴いている。
もう数刻で夜が訪れる。千紘は長い、長い夜の訪れを感じ取っていた-
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