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10 鳥居尚久
「あー…頭いてぇ…」
自室のテーブルに突っ伏すと、呻くように一言呟いた。
数時間前、鳥居は部屋の前の通路に倒れ込んでいるのを隣室の住人だと名乗る女性に声を掛けられて目覚めたのだった。隣人の女性はしきりに「救急車を呼びましょうか?」と提案してくれていたが、「大丈夫、大丈夫っす」と言って頭を下げて部屋へと戻った。何故気を失っていたのか全く憶えていなかったが、千紘と口論になった事だけは記憶の片隅に残っていたので大方千紘に殴られでもしたのだろうという考えに至り、腸が煮えくり返る思いであった。
藤井千紘と小川玲士。大体あの二人の王様気質にはついていけない所が往々にしてあった。確かにあの二人が居たからこそ“愉しい学生性活”を送れたのも事実であったが、関わってさえいなければあんな後味の悪い思いをしなくても済んだのだ。鳥居は内心で独りごちた。
「…藤井さん、一人で居て大丈夫なのか?」
-赤い封筒の存在にかなりビビっているみたいだったけど…いや、心配してやる必要無いじゃないか。頭下げて帰ってくるなら許して泊めてやってもいいけど、自分から折れてやる事は無い-
それでも一応スマホに千紘からの着信が入っていないかを確認してしまうのは、長年培ってきた下っ端根性に他ならなかった。連絡に気付かずに放置すると、ろくな事にならないのは経験済みであった。特に通知が無いのにホッと息を吐くと、鳥居は項垂れるようにまたテーブルに頭を沈めた。
訳の分からない難癖を自分の部屋に付けられて思わずカッとなってしまったが…赤い封筒を送りつけている人間がいるのは確実なのだから、今の段階で千紘と仲違いをするのは早計であったと後悔する。暫く一緒に居れば千紘に報復しようとする人物を掴めたかもしれないなと鳥居は思ったが、すでに後の祭りであった。
「…藤井さん、夜中に音がどーとか、ベランダから何か入って来たとか…そんな事言ってたっけか」
千紘の蒼褪めた表情を思い出し、鳥居は「バッカバカしい」と呟きながらも、内心で不安が染みていくように広がるのを感じる。ずっと報復しているのは人間だと思っていたし、今もそう思ってはいるが…もし、恨んでいる相手が人間ではなかったら?そんな考えが脳裏を過ると、乾いた笑いを漏らした。
「…まさか、な」
ピンポーン
タイミング良く鳴った部屋のチャイムにビクリと肩を揺らした。暫く身体が固まってしまったが、その内にもう一度鳴らされた。
千紘が戻って来たのかもしれないと、ハッとして鳥居は慌てて玄関へ走って扉を開けた。
けれど玄関先に居たのは女性であった。
-どこかで見た事ある女性だな…-
鳥居が首を傾げて「何か?」と言うと、女性は「あの…お加減いかがかと思いまして」と小さく応えた。お加減?鳥居が更に首を傾げると、女性は静かに「私…隣の部屋の者です」と付け加えた。やっとこ合点がいった鳥居は慌てて頭を下げ、殊勝な態度を見せた。
「さっきは有難う御座いました。お礼もまともに言ってなくてすんません」
「いえ、良くなられたなら良かったです。私看護師をしているので…部屋で悪くなっていないか心配になってしまって」
安心しました。そう言って朗らかに笑う隣人に、鳥居はこれはチャンスか?と邪な考えを巡らせた。最近はサークルのメンバーの失踪に女が関係しているからと警戒し過ぎて、商売女と一晩だけの関係しか築いていなかった。看護師の女をキープしておくのは将来的に悪くないかもしれない。そんな事を瞬時に考え、鳥居は自分の後頭部に手を添えた。
「病院行く程じゃないんすけど、頭が痛んで…。一人だし、ちょっと心細かったんですよ」
頭が痛むのは本当だったので、全くの嘘という訳ではなかった。けれどもう大分良くなっていたし、弱音を吐く程の痛みでは無い。仮病が昔から得意であった鳥居は渾身の演技力で蒼い顔をして見せると、隣人で看護師だという女性の前で立ち眩みの様にふらついて見せた。女性が慌てて鳥居の身体を支えると、すかさずその肩に腕を回して弱々しく耳元で「今夜、傍で看ててもらえないですか…」と懇願する。
誘いと理解した上なのか、職務上の責任感なのか分からない表情で女性は「私に出来る事なら…」と小さく頷いたのを確認すると、鳥居はその華奢な身体を扉の内側に吸い込ませた。
逃げられたら堪らないので、暫く演技を続行した鳥居はベッドに腰掛けると、女の手を握って横になった。「体温に触れてると安心する」と一言呟けば、女性は握り返してきたのでチョロいなとほくそ笑む。
「名前、何て言うの?」
「…私、広瀬楓花よ」
「へぇ、良い名前…。俺は鳥居尚久」
「鳥居、尚久…」
自分の名前を復唱する様子に気を良くした鳥居は、そのまま握った手を自分の口元に寄せて手の平にキスをした。擽ったそうに腕を引こうとする楓花を逃がすまいと、そのまま腕を引っ張って自分の横に寝かせた。腰を抱く様にすると身動きが出来ないようで、慌てて開こうとする口を自分の唇ですぐに塞ぐ。驚いたように開いたままの口内に舌を伸ばすと、奥に引っ込もうとする楓花の舌を捕まえて弄ぶように絡めた。
やがて息が上がった様子の楓花が戸惑いの色を見せなくなると、やっと唇を離して解放した。
「ちょっとこうしてて良い?」
言い知れぬ不安が足元から這い寄ってくる感覚が拭えない鳥居は、楓花の胸元に顔を寄せるとその心音を聞いていた。生きた人間の鼓動に安心していると、楓花は鳥居の背中に腕を伸ばしてその背を擦る。慰めるようなその仕草に堪らず、鳥居はその胸に顔を押し付けるようにして安息を求めた。
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