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鳥居が目を覚ますと、楓花の姿は既に無かった。ベッドサイドにメモが置かれ、「仕事に行くので部屋に戻ります。起きてまだ頭痛するようなら、診察受けて下さいね」と几帳面な字で書かれている。
昨夜の事を思い返すと、楽観的な思考の鳥居でも流石に落ち込んでしまいそうであった。久々に楽しもうと意気込んで誘ったというのに、心音を聞いている内にすっかり寝入ってしまったらしい。ベッドを抜け出した楓花に気付く事無く眠り続けていた。よく一度も起きずに寝続けたものだと自分に呆れる気持ちだった。まして心音に安心して寝付くなんて、赤ん坊じゃあるまいし…と自分自身に毒づいてみても弁解するべき楓花本人がいないので虚しいだけであった。異性と同じベッドで寝てキスで終わるなんて、鳥居の常識からはかけ離れ過ぎていた。横目に映る窓がオレンジ色を室内に取り込んでいて、それがどうしたって出勤時間の訪れを煩く告げている。
項垂れる間もなく慌てて服を着替えて職場へ向かい、今に至っている。
「ふつーの女なら、ドン引きだよなぁ…」
-折角良い女と知り合えたっていうのに-
仕事場のバーでシェーカーを振りながら、思わず言葉に出ていて慌てて目の前の客に愛想笑いをした。一人で飲みに来ていた常連の女客はしたり顔で「何がドン引きなの? 何か彼女にやらかしたぁ?」と酔った様子を隠さず舌っ足らずに言うと、うふふと笑った。聞かなかった事にしろよと苛立ちながらも、鳥居は笑顔を浮かべたまま常連の女に視線を向ける。胸元がやたら開いた服を着ているその女は、確か他のスタッフに“りん”と呼ばれていたと記憶していた。
「りんちゃん、俺に彼女いないって知ってるでしょ?」
「知ってるけど、さぁ…。ナオってあんまり自分の事を話してくれないから…今夜、じっくり教えてくれる?」
カウンター越しに伸びて来た女の手が、カクテルを差し出した鳥居の腕が引っ込むより先にその手を捉え、絡み付いてきた。指と指が遊ぶように絡み、昨夜消化出来なかった熱を呼び起こすようにゆるく刺激した。
-こんな調子で他のスタッフも常連客も食われてる訳ね…正直好みじゃねーし、他のスタッフと穴兄弟になるのも嫌だけど…-
そこまで考え、学生時代にはどれだけの“兄弟”がいた事かを思い出し、鳥居はふと笑った。あまりに馬鹿げた、今更な懸念であった。
-鬱憤晴らしにはこれぐらいの女が丁度いい-
「俺、あと一時間で上がりだからさ。その後、じっくり…でいい?」
絡んだ指にキュッと力を込めると、りんは満足気に笑って見せた。
◇◇◇
「ナオ…ん…」
店を出てすぐ盛ったようにキスを仕掛けて来たりんに鳥居は呆れつつ、店から見えない位置まで引っ張り込んで移動させると、やっと酒臭いその唇に応えた。りんの少し厚めの上唇を軽く食んでから舌を差し込むと、喜んで絡みつく無遠慮な女の舌に鳥居は辟易した。
比べるつもりなどなくとも、どうしたって昨日楓花としたキスの方が何十倍も気持ち良かったと感じてしまう。時間をかけるだけ自分が虚しくなる事を悟り、鳥居は早々に唇を離すとりんの肩を抱いて歩き出す。物足りなさそうなりんは不満そうな声を上げたが、聞こえないフリをして強引に引っ張った。
鳥居はりんをホテルに連れ込もうと思っていたが、りんの「ナオの部屋に一回でいいから行きたい!」やら「ナオの部屋じゃなきゃシない!」と上手く回ってない口で叫ばれ嫌々ながら自分のアパートまで連れて来た。
りんはやたらと上機嫌に階段を上り、「早くぅ、鍵開けてぇ」と高い声を出している。こんな深夜に止めろと、慌ててりんの口を手で塞ぐと指を甘嚙みされ、鳥居は乱暴に自室の鍵を開けるとりんの身体を室内へと放り込んだ。
自分も部屋へと入る前、何となく楓花に気付かれていないだろうかと気になって隣室を見てしまうが「いたぁい」というりんの甘ったるい声に感傷に浸る間もなく意識を戻される。その時楓花に対して何かしらの疑問を感じていたが、それも頭から飛んでしまい苛立ってりんに視線を向けた。
玄関で軽く尻餅をついたらしく恨みがましい視線を向けられながら、そんな顔をしたいのはむしろ俺の方だろうと鳥居はりんの腕を引っ張って立たせると、そのままベッドまで連れ立って押し倒した。
元々開けていた胸元からは谷間どころか下着の色もしっかりと見て取れた。じゃれている間にみっともない程に伸びてしまったのだろう、帰る時は露出狂で捕まるかもなとほくそ笑む鳥居に、りんは「キス、しよ」と気付いていない様子で笑っている。
要望通りにキスをしてやると、りんは鳥居のシャツに手を掛けてボタンを外している。そのまま下へと腕を滑らせ、人差し指で撫でるように窮屈そうにしている鳥居の性器に触れて遊んでいる。
いい加減焦れた鳥居がりんの服を剥ぎ取る勢いで脱がせると、その胸元に唇を寄せた。指は既にショーツの中に入り込んでいて、軽く擦るだけで湿っていた。女はかなり酒に酔っているし、適当に愛撫を済ませて出すものを出してしまえれば今夜はそれで良いと思っていると、とろんとした瞼で短く喘いでいたりんが「ちょ、ちょっと…待って…!」と鳥居の肩を掴んで押し戻した。
「なに」
早く済ませたいのに中断されると、余計に下半身に熱が籠って鳥居は機嫌の悪さを隠す様子もなく声を上げた。そんな鳥居の様子を気にする余裕も無い様子で口端をヒクヒクさせているりんに、やっと疑問が浮かぶ。鳥居がりんの頬に触れて「どうした?」と聞けば、鳥居の姿を越して天井を眺めている様子のりんは小さく「何…アレ…」と呟いた。その指先は震えつつも上を指していて、それ以上何も言わないりんに要領を得なかった。
-何なんだよ、一体…-
仕方なしに鳥居は天井を向くが、そこに「アレ」と称されるような物はなにも無かった。ただ暗闇があるだけの空間を、りんは凝視して震えている。暗闇にしか見えないが、急激に室温が冷えた気がした。加えて生臭いような嫌な臭いも鼻に着く。
その時ふと、口論になった千紘も窓から入った影が天井から落ちてきて…と言っていた事が脳裏を掠めて、鳥居の背筋に冷たいものが走った。
「な、何か…見えんの?」
「はぁ?! …もういやっ! こんなとこ居られない!」
りんは脱がされた服をサッと着てしまうと、酔いが醒めた様子で玄関まで駆けて出て行ってしまった。残された鳥居は「何だよ、何がいるんだよ…」と呟くとハッとして慌ててりんの後を追ったが、既に姿は見えなくなっていた。
溜息を吐いて通路の手すりに項垂れて身体を預けていると、ふと楓花が住んでいると言っていた隣室が目に入る。
-そうだ、さっき何か疑問に感じたんだ。何だっけ…-
『いい加減にして下さい。俺、ここに住んでんすよ? ベランダから人影が入って来たとか、洒落になんないんですけど。確かに昨夜壁殴ってきた部屋は隣人いますけど、反対隣は今空き部屋なんで叩く人間なんかいないんですよ。怖い夢見たからって、俺の部屋に変な言い掛かりつけないで下さいよ』
千紘に放った言葉が脳を反芻する。
隣人は片側しかいない。五月蠅いと壁を殴ってきたのはいつも作業着姿の、恐らく土方の若い男だ。もう反対隣は空室だ。なら、隣人を名乗り…昨日出逢った広瀬楓花はどこに住んでいる?
ガシャンッ
考えられたのはそこまでであった。
頭を殴られたような衝撃が走り、鳥居の身体は崩れるように沈んでいった。
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