10 鳥居尚久

3/3
前へ
/45ページ
次へ
「う…あ…?」 痛む頭に手を伸ばそうとして、鳥居は自分の腕が後ろ手に固定されている事に気付く。血の巡りが悪くなっているのか、腕の感覚があまり無かった。 「何だよ、これ…何で俺縛られてんだ…?」 何故こんな状況に陥ってしまっているのか理解出来ず慌てるが、柱らしい物を背に腕を回され、ロープで固く手首を縛られているらしい。ご丁寧に足首も縛られていて、僅かに尻の位置をずらす程度にしか動けなかった。 薄闇に包まれてはいるが、微かに天窓らしい場所から月明かりが差し込んでいる。 「どこだ、ここ…」 渇いた喉は掠れた声を絞り出していた。埃と、鉄や錆の臭い。鼻に着くその臭いは記憶の奥底を刺激した。鳥居はその場所をよく。 「ここ、矢口悠也の…!」 「矢口議員の別荘の物置よ」 声がした方を見ると、その人物は蝋燭に火を灯して鳥居へと向けた。その場に佇んで居たのは、鳥居の隣人を名乗っていた広瀬楓花であった。楓花はベッドで抱き合った時とはまるで違う、冷めた視線で鳥居を見下ろしている。屈んで膝をついた楓花は、蝋燭を鳥居の頬擦れ擦れまで近付けてくる。 頬に熱を感じ、寸での所で首を傾けて避けると、小さく舌打ちをされる。抱き合って眠った夜からの豹変ぶりに鳥居は気圧され、思わず抗議の言葉を呑み込んだ。 「とは言ってもあの事件後、矢口議員自身はこんな忌まわしい場所忘れたいみたいで一度も訪れていないらしいけど。あの時からたまに人が手入れに来るだけの廃屋同然。人が住まわないと家の傷みが早いって本当なのね」 「…お前が俺をこんな所へ連れて来たのか?」 「そう。鳥居尚久、あなたとはゆっくり話してみたかったから」 楓花は冷めた瞳のまま、口元だけ笑顔を浮かべて見せた。それが薄闇の中で余計に異彩を放っており、鳥居は喉を鳴らした。静かな、怒り。それをひしひしと肌で感じ取っていた。 「あなたは広瀬青葉を憶えてる?」 口元で笑顔を浮かべる事で、何とか怒りを我慢している様子の楓花は鳥居にそう尋ねた。口角を上げながらも、奥歯を必死で噛みしめている。その質問が楓花をここまで駆り立てているのは明白であった。 「広瀬、青葉…?」 下手な答え方はしない方が良いと早々に悟った鳥居は、記憶を探るが思い当たる人物は中々出てこない。考え込む様子に楓花は苛立った顔でまた蝋燭の火を鳥居の眼前に近付けた。鼻先を掠めるギリギリのラインで火は揺蕩う動きをしているが、直接触れていなくとも熱いものは熱い。顔に籠る熱から少しでも逃れようと、鳥居は首を可能な限り引いて反らせた。 「やめろよっ」 「あなたにそんな事を言う権利があるの?」 「一体何の話を…」 「一人暮らしなんて、上京なんてさせるんじゃなかった。青葉が、妹があんな最期を遂げるなら…!」 楓花が怒りを激しくすると、その背後に何かが“居る”事に気付く。鳥居が暗さに慣れてきた瞳で風花越しのソレを見つめると、ソレは漂う黒い影の姿から徐々に女の身体のような曲線を描き、姿を変えてゆく。 顔は朧気に映りはっきりと視認出来ないが、鳥居には何故か『美しい女』と感じた。笑ったように半円を描いている口元だけが見える。その口元を眺めていると、舌を出して己の唇をペロリと舐めている。その仕草だけで何とも言えない色気を感じた。虚ろな鳥居の視線に苛立った楓花が「どこを見ているのよ!」と叫ぶ。 その怒気に黒い影女は殊更喜んだ様子で笑うと、楓花の肩に両手を添えた。そのまま楓花の身体にぴったり合わさると、その体内に溶けるように姿を消した。 「…あんた達が妹にどんな仕打ちをしたのか、あんたの口から聞きたかった…泣いて、詫びる姿を見れば…溜飲もきっと下がるんだと、そう思って…た…」 影が身体に溶けた直後、楓花の雰囲気は一変とした。 それまでも怒りの空気を纏ってはいたが、この状況に少し後悔しているような及び腰の姿勢が見え隠れしていたのが急に消えてしまった。 ぶつぶつと「殺す…? ダメよ、青葉…貴女が苦しんだ以上の苦痛を与えないと…」そんな言葉を吐く姿、その暗い瞳はすでに怒りの感情ではなく狂気を孕んでいた。殺す。その言葉に身動きの取れない鳥居はパニックになり、腕を滅茶苦茶に動かした。 「くそっ…外れろよ…!!」 しかし緩む様子のない枷は軋む音を鳴らしただけで何の変化もなかった。楓花は俯かせていた顔をぐるりと鳥居の方へと向ける。米神に青筋が走り、白目を剥いて不思議そうに鳥居を眺めたかと思うと、地面に手をつく。その体勢のまま鳥居との距離をあっという間に詰めた楓花の動きは、獣というよりも蜘蛛のような不気味な動きをして見せた。 「ひっ…化け物…やめ」 鳥居の言葉は終わらない内に、楓花の口内へと飲み込まれていった。楓花の顔が鳥居の眼前を一緒掠めた瞬間に、鳥居の唇は噛み千切られていた。あまりに突然で、痛みを感じるのが遅かった。目の前の楓花が血の滴った何かを咀嚼している様子を暫く眺めてから数秒経過してやっと、自分の首筋を伝って胸元に滴る雫が血である事に気付く。その後になって唐突に激痛を感じた。自分の唇が噛み千切られた事実を認識してやっと、痛みが襲ってきた。 「んーーーー!!!!」 思い切り叫びたかったが、口内に溢れる血液が喉に溜まり声を出す事が出来なかった。転げ回りたい身体は芋虫のようにバタバタと身を捩ったが、その弾みで関節が外れたらしい肩がダラリと力無く下がり落ちる。思いの外、肩には痛みを感じなかったのでただ力が抜けただけに思えた。 「うぉえぇぇ…」 喉に溜まった血を思い切り床に吐き出すと、涙で滲んだ視界の端に楓花が映った。喰らった部分を呑み込んだのか、ケラケラ笑った楓花がまた蜘蛛のような動きで近寄って来る。 『私が化け物なら、お前らは(ケダモノ)でしょう?』 “いやだ、いやだ…また、痛いのがくる” 次に見た楓花は、千切れた耳を咀嚼している姿であった。 耳の痛みは、まだ訪れていない。
/45ページ

最初のコメントを投稿しよう!

81人が本棚に入れています
本棚に追加