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11 千歳真斗 act.5
真斗は綾瀬姉妹のマンションを足早に立ち去ると駅まで走り、電車へと飛び乗る。閉じた車両の扉を見てやっと呼吸が出来た心地であった。心臓が五月蠅い程に鳴っている。未央がどうして手帳を持ち出した事に気付き、その上で真斗を何故見逃してくれたのかは分からなかった。しかし持ち出した事に気付いているのなら、未央は間違いなくこの中身を読んでいた事だろうと、ポケットから取り出した手帳を開いた。
“広瀬 青葉”
六月頃までの日記を読んでいて、頻繁に出てきた名前であった。綾瀬舞は磨けば光る原石を見つけ、磨く手伝いをした後に数万のお金で女を売っていたらしい。最初は大学外で売春の斡旋めいた事をやってお金を荒稼ぎしていたらしいが、足が付く事を恐れたのか途中から学生間の商売へとシフトしていったようであった。
確かに…と真斗は納得した。在学していた大学は有名私大で、医学部や法学部の学生は家が裕福な者が多かった。リスクのある学外での売春斡旋より、大学関係者に身綺麗にした処女を売る方が余程安全だろうと感じた。何かあってもお互いに身元が割れている上に弱みを握り合っている。裏切りの心配は少なく、ある程度のトラブルならむしろ名前に傷を付けたくない学校側が率先して隠蔽を行う事は想像に難くなかった。
手帳にアフターケアはしない主義、と書いている通り、綾瀬舞は売った後の広瀬青葉の詳細を知らなかったらしい。真斗が六月の日記を目で追っていくと、その先には新しいターゲットと思われる女性の名前が書かれている。青葉が玲士達のサークルイベントに招待された後、どうなったのかという記述は見つからなかった。その事に何故か安堵を感じた真斗は、立っていた電車の出入り口から移動すると、人もまばらな車内の椅子に腰掛けると目頭をギュッと指で押さえる。ここ最近の非日常めいた時間に対する疲労が一気に身体を襲ったようであった。
-広瀬、青葉…か。はにかんだ笑い方をする、可愛い子だったな…-
そう思った所でぞくりと背筋が震えた。広瀬青葉のことなど真斗は一つも憶えていない。顔だって思い出せないのに、何故そんな事を思ったのか。薄気味悪いと思っていると、真斗の斜め正面に座っていた子連れの妊婦が何やら俯いたままぶつぶつと呟いている。隣に座る子どもは気にしていないのか、携帯ゲームに熱中している。育児ノイローゼの母親かと真斗が車両を移動する為に腰を浮かせようとした瞬間、顔を上げて真っ直ぐに真斗を見たその母親は『広瀬青葉は絶望して自殺した!』と鋭い怒声を浴びせた。あまりの迫力に真斗は立ち上がろうとしていた腰をそのまま座席に下ろした。
-何で見知らぬ女が広瀬青葉を知ってるんだ?!-
一人焦る真斗の内心などお構いなしに、その女は朦朧とした瞳を向けたまま口を動かし続けた。
『広瀬青葉はあの夜、意識の無い間に何度中に出された? 広瀬青葉は自分でも知らない間に、誰かも分からない男の子どもを宿していた。借金返済の為に始めた夜の仕事もすぐに出来なくなり、昔気質の実家の両親達に相談出来るはずもなく、一人思い悩んで…』
人が少ないとはいえ、白昼そんな事を言い出した女に真斗はギョッとする。何より自分の子どもが隣にいるのに、そう思って周囲を見ても誰も女を気にした様子が無かった。女の近くに座る学生は参考書を読んだまま視線も動かさない、女の連れている子どもも何も聞こえていない様子でゲームを続けている。
-何だ…何でこんなに普通なんだ?-
『でも本当は知ってる。知らないフリしていても。だってあの夜…あなたもその場に居たのだから』
女がそう言うと、酷い吐き気と共に額から噴き出た汗が頬を伝った。嘘が暴かれた時と同じように、心臓が忙しなく動いている。自分もその場に居た。女にそう告げられた真斗は、込み上げてくる胃液を何とか抑えようと口を手で塞いだ。呪詛の如く吐き出される女の『あの日が初めて、矢口悠也の別荘を利用した日だった』『広瀬青葉はただの飲み会だと知らされていた』『別荘まで彼女を乗せて車を走らせたのは誰?』『男ばかりの集まりだと知られたら抵抗されるかもしれない。そう思って、初めは二人で飲んで安心させて薬を盛ったのは…誰?』女が呟く度に、記憶に無かった映像が頭の中でフラッシュバックする。
助手席に女を乗せて、煙草を吸いながら運転している。女は楽しそうに窓から外を眺めている。女に気のある素振りをして、“皆に紹介するの嫌だな”と照れた様子で言って拙いキスでもしてみれば女は気を良くしていた。“サークルのメンバーは遅れるみたいだから、少し二人で楽しもう”そんな事を嘯いて、預かっていた別荘の鍵で先に入ってワインの栓を開け、乾杯をする。女がトイレに立ったタイミングで指示されていた薬をワインに入れ…
「止めろっ! 俺は広瀬青葉なんて知らない!」
脳裏に流れる映像に思わず叫んでいた。真斗は瞼をギュッと閉じて耳を塞いでいる。女はもう何も言っていない。眠ったように顔を俯かせている。学生は相変わらず参考書を読んでいるし、子どもはゲームを続けている。
真斗は痛む頭から溢れる記憶を止める術を持たず、震えながら耳を塞ぎ続けていた。朦朧とする意識は、これが現実なのか夢なのかすら判断する事を許さなかった。
◇◇◇
「広瀬さん…ですよね。初めまして、【Freedom】のイベント送迎は俺がします」
待ち合わせ場所に時間通り到着していた青葉は、そう言った男を見て少し緊張した様子であった。男と二人で車に乗って移動するとは思っていなかったのだろう。戸惑った表情で「宜しくお願いします」と言ったきり、暫く走っても口数少ないままであった。こんな調子じゃ、男ばかり集まっているのを見たら叫んで逃げ出しかねない。そうなったら非常に面倒だと、男は自分の表情と空気を柔らかくした。
「広瀬さんみたいな可愛い子を乗せる事って普段無いから、緊張するな」
心にも無い台詞だったが、初心なフリをすれば本物の初心な青葉はやっと安心出来た様子で笑顔を浮かべた。それからは会話も交わしながら、初デートしているカップルみたいな空気でお互いの自己紹介をして移動した。慣れたら人懐こいタイプなのだろう。青葉はすっかり気を許して、パーキングエリアで男の分の飲み物を買いに行っている。男は一人、車内で煙草を吸いながら携帯を弄って文字を打っていた。
【俺が先に酒飲ませて、薬で潰しておきます。意識なくてもいいですよね?】
【構わない、任せる】
相手からはすぐに返事が届き、思わず笑ってしまった。それと同時にコーヒーを両手に戻って来た青葉は不思議そうな顔で男を見た。
「何か楽しい事があったの?」
「いや…今日のイベントが楽しみだなって。コーヒー有難う」
青葉からコーヒーを受け取った男は、一口飲んで顔を顰めた。恐らく自分の好みで選んだのだろうカフェオレは甘ったるく飲めた物では無かった。
-好みじゃない。カフェオレも、この女も-
内心で辟易としながら、青葉のご機嫌を取りつつ別荘へと急いだ。早く玲士や千紘に引き渡して役目を終えたい。その事だけを念頭に、車を走らせた。
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