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1 小説家のきいさんと、わたし
わたしは泣いていた。
庭の隅で、誰にも見つからないようにして。
なのに、縁側に姿を現した叔父の山田喜一郎──きいさんと目があった。きいさんの、低くてガサガサしてて、ドスの効いた声が庭に響く。
「なんや、優香、泣いとるんか」
わたしはきいさんに背を向けた。
どうか一人の時間を邪魔してくれるな。
山田のお家は広い日本家屋だ。叔母の裕子さんの手入れが行き届いて、コデマリやツツジの垣根、サルスベリの木なんかが、一斉に五月の花を咲かせている。
土に混じって漂う花の蜜の香を嗅ぐとほっとした。
きいさんのつまらなさそうな声がする。
「転校したなかった言うても、しゃーないやろ。もう小五やろ。泣きな」
むかっ腹が立った。
わたしの何がわかるねん、と言い返そうかとも思ったが、相手は小説家だ。
どっかの偉い賞をとったらしい。下手に口論なんかしたら、言い負かされて、余計いらいらするかもしれない。
わたしは庭に向かって捨て台詞を吐いた。
「うるさい。ほっといて」
「ほな泣きな。人の気ぃ引いといて何やねん」
「勝手に見たんはそっちやろ! きいさんに、気にかけてなんかいらんし!」
きいさんがむっとしたのが分かった。空気にびりびりっと怒りが走る。きいさんは、そもそも顔が怖い。今も、きっと、鬼瓦みたいな顔をしているに違いない。やってしまったと思ったが、後の祭りだ。
「阿呆が。今から俺らの世話なるんちゃうんか。もうちょっと家主の機嫌を取ろうとは思わへんのか」
きいさんの言葉に、また、泣きそうになった。両親は仕事でオーストラリアに出かけた。わたしは連れて行って貰えなかった。今から、二年間、きいさんと裕子おばさんのこの家で暮らす。
わたしはきいさんのほうを向いた。
きいさんは耳をほじっている。
「機嫌取ったら取ったで、顔色伺うガキは好かんてぬかすくせに。大人は理不尽や」
「あっはっは! せやな。ほんまや。優香、落ち着いたら座敷来いや。ええもんやるから」
縁側から遠のいていくきいさんの上機嫌な足音は、めっちゃ喧しかった。
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