《 2 》

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《 2 》

 雨は嫌いじゃないと誰かが言っていた。肌にすっつく雨粒が、流れ落ちる先で鮮やかな緑を潤していくので、それは命の音なんだって――。  あのとき奏太郎はまだ十ニ歳で、この世界に生まれて十年ちょっとしか経っていないのに、何だか全てわかったような、若干あきらめたような感じで六月の雨の通りを歩いていた。ものすごいスピードで追い越していく自転車の背をぼうっと眺めながら。  あと小一時間もすれば、きっと降り出すだろう……きっと誰もがそう思うような不穏な天気だった。  その土曜日、奏太郎はピアノのレッスンをサボった。  食器ばかりを店先に並べる退屈なその通りの店先で、奏太郎の両の手から溢れるように落ちた二枚の平皿は、案外軽やかな音をたて、その音は瞬間にして消えた。からし色のかけらが、足元に散らばる。落とそうと思ったわけじゃない。でも落ちてもいいと思った。  少なくとも、絶対に落とさないようにとは思わなかった。 「怪我は……」  顔をあげると、そう言いかけたのは隣でひどく真剣な顔つきで、小皿を選んでいた若い男だった。  反対側からお店の人が慌てた様子で駆け寄り、「ちょっと」と声を荒げる。「落としてしまった」のではなく、わざと「落とした」。そんな風に見えたらしい。  赤い半袖のシャツの上にベージュのエプロンを重ねた彼女は、母さんくらいの歳に見える。彼女は目尻をつりあげて 「お母さんは?」  厳しい口調で尋ねる。奏太郎が黙っていると、 「あの、」  隣の男が彼女に向かい合い、奏太郎の落とした平皿の代金と、自分で選んで手に持っていたお皿の両方の代金を支払った。全然知らない人なのに、どうしてそんなことをするのか分からなくて、奏太郎は外へ飛び出した。雨はもう降り出していた。  ちょうどいい。肩にかけたトートバッグを雑に振り回しながら駆けていく。バッグの中に入っている楽譜もみんな、濡れて見えなくなってしまえばいい。ピアノなんか弾けなくなるように――。  突然、雨が止んだ。  いや、止んだのではない。ふと見上げると、さっきの男が鈍色(にびいろ)の傘を広げている。先っちょについていた雫が滴り、その男のお腹くらいまでしかない奏太郎の身長まで落ちてきて、Tシャツの袖を濡らす。 「怪我はなかった?」  その問いには答えずに黙って歩き進めると、 「名前は?」  と尋ねてくる。 「そうたろう」 「どんな字?」 「演奏の、奏」 「演奏の奏か。おしゃれな名前だな」 「別に」  ふてくされた様子で答えると、 「僕は太郎っていいます。ただの太郎だから、君のことが羨ましいよ」  決して話しかけやすい雰囲気を出してはいない。どちらかというととても不機嫌な態度をとっているのに、太郎君は奏太郎のそれには構わずに続けた。  太郎君はその日探し物をしていたのだと話した。とても楽しそうに。 「なかなか揃わないんだよね」  太郎君と小春さんの家の食器はばらばらだった。  小春さんというのは太郎君の奥さんで、太郎君よりも歳が四つ上らしい。太郎君は、クラスの担任の上島先生と同じ歳くらいだろう。  食器は、それぞれ一人暮らしの部屋から持ち寄ったので、種類がなかなか揃わないのだという。よく鍋をやっていたので、中華鍋は一つもないのに土鍋は二つ。大型家具ショップでまとめ買いした銀食器セットは、何人家族かと疑うくらい大量にあるのに、肝心のバターナイフはない。  二人で住み始めた当初はパンをのせるちょうど良い平皿が一枚しかなくて、紅色の椿柄を施した和風の平皿に仕方なく、朝食のクロワッサンをのせて食べることもあったという。  とにかく揃わない。さっさと二セットずつ買えばいいのに、いざ二人で大型家具ショップへ行くと、見ること自体が楽しくなってつい肝心なものを買い忘れてしまう。それでも結婚祝いや何やらでペアのうすはりグラスをもらったり、実家から急須を譲ってもらったりしたので、食器棚には時折ちゃんとしたものが顔をのぞかせる。  それでもどうにもやっぱり、揃わなくて少しずつここで買い続け、ようやく揃ってきたのが、結婚して二年目の春だった。  お皿が揃うと料理もさらに楽しくなって、太郎君はどんどんレパートリーを増やしていった。小春さんの家から持ち寄った一人暮らし用の冷蔵庫が一杯になって、もうそろそろ新しいのに替えようかと話が出た頃、煮物用の小深いのが割れた。新しくどんなのが欲しいかと小春さんに訊くと、  縁が揺らいでいるのがいい。  もっというと波打ってるやつかな、と。  小春さんの注文にあうものはなかなかなくて、でも太郎君は探し続けた。そしてようやく「これかも」と見つけたのが、あのお店だった。底の中心に茶色い小鳥の文様――縁の波打つそれを。  そうしてあの店で奏太郎に出会った。  太郎君はこの通りが好きなのだと言った。  店先に並ぶやけに大きなサイズの鍋に気を取られて立ち止まり、中へ入ろうか考えあぐねている人や、結局通り過ぎてしまう人。じっと同じ戸棚の前にしゃがみこんで、二つの湯のみを比べて悩んでいる人。  食器を眺めている人を見ると、不思議とその人がどんな人と暮らしているのかがわかるのだと。  太郎君が微笑みかけるので、奏太郎は無性にさみしい気持ちになった。 「僕のお皿は割れたんだ。いや、割ったんだ」  そう呟きいきなり駆け出すと 「おい、濡れるよ」と太郎君が叫ぶ。  その呼び止めを無視して新堀通りをただ真っ直ぐに奏太郎は走る。走ってはしって、でも横断歩道の手前で息を切らせながら追いかけてきた太郎君に捕まる。  そして太郎君は奏太郎の手にそっと傘を握らせる。  「いらない」   首を横に振ると太郎君は困った顔をして、「じゃあ、代わりにこれ」と自分のかぶっていたソーダみたいな淡い水色の帽子を奏太郎の頭にのせる。大人用のそれは、小さな頭をすっぽり隠しおでこまで覆う。   ようやく顔をあげ目を合わせた奏太郎を見て、太郎君がにっこりと微笑む。  奏太郎はその笑顔に何でだか泣きそうになって、青信号になるとすぐにまた走り出した。
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