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《 3 》
その翌週、太郎君にもう一度会ったのは、駅前のピアノ教室の前だった。
太郎君は奏太郎に気付いていないのか、目が合ったのに声をかけてこなかったが、代わりに駆け寄ってきたのは小春さんだった。太郎君の隣にいる女の人が小春さんだと、直ぐに分かった。小春さんは鮮やかな緑色のロングカーデガンをワンピースの上に羽織り、白いハイカットのスニーカーを履いていた。
「もしかして、奏太郎くん?」
肩までの真っ直ぐで艷やかな黒い髪を耳にかけ
「こんにちは」
視線を合わせるように低く屈む。小春さんは奏太郎のかぶっていたソーダ色の帽子を満足そうに見ると、「ほら、この前言ってた」と太郎君に何やら話しかけている。
もらった帽子をかぶっていたのは、レッスンをさぼっても近所の友達やそのお母さんたちに見つからないように、自分なりの変装のつもりだった。
ぐうっ
思わず鳴ったお腹をなでると、小春さんは両手に抱えたビニール袋を持ち上げて見せ、ニコッと笑うと先導するように歩き出す。
「あの、これ……」
とにかくこの帽子を返そうとするも、小春さんは「その前に、お腹すいたんでしょ?」と言うばかりで先へ行ってしまう。仕方なくとぼとぼとあとをついていく奏太郎のことを、時折確かめるように太郎君は振り返った。
アパートに着くと、奏太郎の家よりも一回り小さい冷蔵庫にスーパーで買ってきた豚のバラ肉やら、納豆やら、焼きそばなどを詰め込む。
そうして太郎君はキッチンに立つと、シャツをまくってキャベツをざく切り。白い粉に卵、桜エビと揚げ玉を混ぜ合わせる。サラダ油を薄く引いたフライパンにバラ肉を広げるとジューっと踊るような音に香ばしい匂い。かきまぜた生地のタネを流し込み、あとはじっくり弱火で時間をかけて焼き上げる。
出来上がったのはお好み焼きだった。
お祭り以外でお好み焼きを食べるなんて初めてだったので、まじまじと見つめていると、
「うちでは、お昼ごはんによく食べるの」
小春さんが嬉しそうにフライ返しで切り分ける。「いただきます」と二人が手を合わせるので、奏太郎はその前にずっと言おうとしていた言葉を吐き出した。
「この前はごめんなさい」
太郎君の方を見るときょとんとした顔のままだ。
「それで……ありがとうございました」
太郎君が何も言わないので小春さんが代わりに答える。
「大丈夫だよ。ほら、さめちゃうから早く食べよ」
きゅっと口を結んで明るく笑う小春さん。太郎君はただ緩やかに微笑んで黙々とお好み焼きを口に運ぶだけだ。
「ごちそうさまでした」
玄関まで見送ってくれた小春さんに「これ」とトートバッグから帽子を取り出す。小春さんがなかなか受け取らないので、押し付けるようにして奏太郎は玄関を飛び出した。
しばらくすると雨が降り出したが、折り畳み傘を太郎君の家に忘れたことを思いだした。急ぎ振り向くと、「奏太郎!」と呼び止める声がする。そこにはこの前と同じように鈍色の傘を広げた太郎君の姿があった。左手にソーダ色の帽子を握っている。
「僕は、太郎っていいます」
なぜだか今更になって、太郎君は改めて自己紹介をする。
「……知ってるよ」
奏太郎はその一言のあと、押し黙ったままその場に佇んでいた。
「これは、返さなくていいんだ。君に、あげたんだから」
そう言って、奏太郎の頭にかぶせるとほっとしたように笑った。
「君のことを忘れていたわけじゃないんだ。ごめんな。でも思い出すのに少し時間が必要で」
そう言ってデニムのポケットから四角いシルバーのレコーダーを取り出すと再生する。
《今日は肉じゃがを作ります。白滝を買い忘れないように。その前に合羽橋まで歩いて、和風の小深いお皿を見つけに行きます。雨が降り出す前に》
《奏太郎という子に会った。演奏の奏、で奏太郎。おしゃれな名前。帽子がとても良く似合ってた》
それは太郎君の生活の記録だった。
《今日はお好み焼きを作ります。よくお祭りで食べるふわふわのやつです。かためのお肉しかなかったので、小春さんと豚バラ肉を駅前のスーパーに買いに行きます》
「何でも録音するの?」
「そうだよ。あとで思い出せるようにね」
そして新しい記録を吹き込んだ。
《六月九日。奏太郎にもう一度会った。演奏の奏に太郎で奏太郎。お昼にお好み焼きを一緒に食べた》
太郎君は笑うと目が針みたいに細くなって、漫画ですぐに描けそうな顔。とびきりかっこいいわけでもないけど、どこか安心するその笑顔は、まるでずっと前から知っているみたいだ。
「折り畳み傘、置いてきちゃったんだけど」
「じゃあ、またうちに今度食べに来なよ。お好み焼きでも何でも、作ったげるよ」
雨は嫌いじゃないと誰かが言っていた――。
太郎君と並んで歩く六月の通り。その瞬間、奏太郎は雨が嫌いじゃないかもしれないとそう思った。
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