《 4 》

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《 4 》

 太郎君は毎日録音する。一日とか、短い記憶しかもたないので、日記みたいに今日あった出来事を話して残しておくのだ。結婚して五年間の毎日を――。そのときはどうってことないことだと思っても、あとで聞き返すとすごく大事なことだったり、ひどく面白かったりすることがある。  これは僕たちの生活の記録なんだと、太郎君はレコーダーをまるで魔法の箱のように掲げた。 「弱気で泣き虫だけど優しくて、誰よりも美味しいご飯を作ってくれる人よ」  小春さんは太郎君のことをそう言った。いまだに虫が苦手で、夏にゴキブリが部屋の中に出ると、たとえ小春さんがお風呂に入っていたとしても、まるで地獄から這い出たような叫び声をあげて、彼女に助けを求めるという。 「だっさ」  奏太郎がそう言うと太郎君はぷいっと背を向けて、ひき肉をサラダ油で炒め始めた。  さっき録音した太郎君の声が流れる。 《今日はタコライスを作ります。サルサソースは冷蔵庫に少し残ってる。ひき肉は冷凍の。レタスと卵を買いに行きます。今日もきっと奏太郎がうちにくると思ったので、アボカドでワカモーレを多めにやるつもりです》  小春さんはヘッドハンターの仕事をバリバリこなす。「ヘッドハンター」と聞いて、当時奏太郎はなんのことだか分からず、「何だか強そうだね」と言うと小春さんは爆笑した。  そして太郎君の脛についた蚊を奏太郎が叩いてやり、太郎君がフライ返しを持ったまま「うひゃ」と飛び跳ねると、「何だか、奏太郎の方がお兄さんみたい」と喜んだ。やっぱり名前に奏がついているから、ただの太郎とは違うのね、といたずらっぽく笑う小春さんはとても楽しそうだった。  太郎君について訊くと、彼は「お弁当屋さん」なのだと言った。  太郎君は小春さんのことを 「強くてかわいい人。それに底抜けに明るいんだ」  表情がくるっくる変わる、かわいいのに豪快に笑う小春さんのその笑顔が好きなのだと。 「強いとかわいいは一緒なの?」 「一緒になることもあるんだよ。きっと奏太郎も、そういう人に出会うんじゃないかな」   太郎君は炒めたひき肉と目玉焼きをトッピングし、ボウルにタコライスを盛り付ける。  奏太郎は土曜のお昼、ピアノのレッスンをさぼっては、太郎君の家に遊びに行くようになっていた。指を怪我をするからと、家では料理なんて絶対させてもらえないから、太郎君の横に並んで野菜を洗ったり鍋をのぞいたりするのはとても新鮮で、同じ楽譜を何度もなぞるピアノの練習より何倍もわくわくした。  いつの間にか、小春さんがハッピー通販で健康グッズを頼んだときに受け取るダンボールは、奏太郎専用の台になっていたし(背丈に合わせてキッチンに届くようにと太郎君が作ってくれた)、折り畳み傘は毎回持って帰ろうと思って忘れていた。  七月に入る前の最後の週末。じわじわと迫りくる夏の暑さ。学校のみんなは夏が好きだと言うけれど、奏太郎は嫌いだった。八月のコンクールに出るために風邪をひけないからと、プールの授業はいつも母さんに見学させられたし、練習量が七月の後半からもっと多くなる。本当はみんなとプールにも入りたい。 「そっかあ、奏太郎はピアニストなのか」  太郎君は呑気にそんなことを言う。  ピアニスト? まさか。ピアノが好きかどうかもわからないのに。 「でも今年は去年とった賞よりも、もっと上をいかなくちゃいけないんだ。だからもっと練習しなくちゃいけないって母さんは、そう言うんだ」  奏太郎はうつむく。  太郎君が洗った食器を受け取ってふきんで拭く。もうお皿は、割らない。  小春さんはコーヒー豆をひきながら、奏太郎と太郎君分のブドウジュースも用意してくれている。  この香りがたまらないのよ、そう何度も小春さんに言われても、奏太郎はまだコーヒーの良さがわからない。ついでに言うと、太郎君もコーヒーを飲まない。大人になるとみんなコーヒーを飲むものだと思っていたが、そうでもないらしい。 「ピアニストじゃないよ」  ぼそっと言うと 「え、そうなの? でもピアノ好きなんでしょ。じゃあピアニストでいいんじゃないの」  太郎君は「ちょっと雑かあ」と洗剤の泡をごしごしやりながら自分で言って笑う。 「じゃあ、太郎君は料理が好きだから、お弁当屋さんなの?」  奏太郎は尋ねる。 「うん、料理は好きだな。でも好きってそれだけで好きなんじゃなくて、誰かのために作るから、好きなんだなあ」 「何それ」 「料理が好きって言うより、僕の作った料理を食べてる奏太郎や小春さんを見るのが好きってこと」  太郎君はかっこいいことを照れくさそうでもなく、案外さらっというところがある。不思議な人だ。 「ほーい、ジュースいれたよ」  小春さんが、キッチンの横にある食器棚の上にグラスに注いだそれを置く。なかなか揃わない食器が並べられた、あの棚だ。そしてお気に入りらしい赤いカップに口をつけ、挽きたてのコーヒーを飲みながら唸る。 「うんまいねえ」  幸せそうな顔をするが、奏太郎も太郎君もその美味しさが分からないので、顔を見合わせ苦々しい顔をする。 「何よ、お子様たちはジュースでも飲んでなさいっ」  小春さんがぷいっとリビングの方に戻るので、太郎君と声を出して笑った。  太郎君がお弁当屋さんで働き始めたのはここ最近のことで、本当は帽子職人だったのだと知ったのは、その次の週だった。
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