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《 5 》
太郎君の家に向かう途中の交差点で信号待ちをしていると、通りの向こうに見えたのは小春さんだった。小春さんは地下鉄の駅の出口から地上にあがってきて、駅前のスーパーに入っていく。その横顔は、どこか難しくて、寂しそうに見えた。
「どこかへ出かけてたの?」
スーパーに入り、声をかける。
「お、奏太郎。うん、ちょっとね」
振り返った小春さんはいつものようにぱっと明るく笑うと、
「よっしゃ、今日は生姜焼きらしいんだけど、みりんが足りないって。買って帰ろう」
レジで会計を済ませ一緒に家へ向かう。
「奏太郎はなんでピアノを始めたの?」
小春さんたちは奏太郎がレッスンをさぼっていることを知らない。
二人っきりで歩くのは初めてだった。
ピアノを始めたのは四歳の頃。でも始めたきっかけなんて覚えていない。ある日母さんのピアノを何も見ずに弾きだして、それがいつも母さんが家で聴いていたショパンのワルツだったから母さんが驚いて、レッスンに通い出したのだと聞かされた。
母さんは元々音楽の大学を出てピアニストを目指していたらしいけど、結局コンサートホールでの仕事について、父さんと結婚した後はやめてしまった。
「奏太郎はピアノが好きなんだから」
それが母さんの口癖だけれど、奏太郎は自分がピアノを好きかどうかは分からない。嫌いじゃないけど。でも、一つだけ分かっていることがある。ピアノを弾きたいんじゃなくて、本当は歌いたいんだ――。歌が、好きだった。でも恥ずかしくて、まだ言えない。
「だったら、弾きながら歌えばいいのに」
小春さんは言った。ほら、そういうアーティストいるじゃない。
彼女はとてもいいことを思いついた、というように跳ねるように歩き、奏太郎がピアノを弾きながら歌うんだとしたら、どんな歌を聴きたいか、まるで自分の夢を語るように楽しそうに話す。そして面白い想像をしては、時折豪快に口を開けて笑う。
「お母さんにも言ってみたらいいと思うよ。歌を歌いたいんだって」
そして、奏太郎のかぶるソーダ色の帽子にぽんと手を置くと、占い師のような顔をして
「うん、奏太郎はきっと言える。帽子は何でも知ってるのよ」
と微笑んだ。
帽子は何でも知ってる、それは太郎君の言葉なのだと小春さんは言った。
小春さんと太郎君が出会ったのは、二十代後半で小春さんがむしゃらに働いていた頃だったという。
「仕事ですっごく大きな失敗をして、それで『ああ、もう会社やめちゃいたい』って思ってたのね。次の日から南国でも行ってやる! みたいな。半ば現実逃避的な感じで旅行の予定を組んで、たまたま入った帽子屋さんにね、太郎君がいて。つばの広い、オフホワイトの麦わら素材の帽子を試しにかぶって鏡を見ていたら、『何か、あったんですか?』って。
何も言ってないのにまるで心を見透かしたみたいに。『何で、わかるんですか?』って訊いたの。そしたら『その帽子は僕が作ったんです。帽子が頭にかぶるから、頭に一番近いから、その人が何を考えているのか、全部わかっちゃうんです』だって。変でしょう?」
おかしな人よね、と笑いながら太郎君のことを話す小春さんはとても楽しそうだった。
家につくと、一緒にやってきた奏太郎と小春さんを見て太郎君は少し驚き、「おかえり」と袋を受け取る。太郎君はすでにキッチンに立っていた。
お肉を漬けこませるのは本当は長ければ長い方が良いのだけど、と言いながら太郎君は冷蔵庫から保存パックに入ったそれを取り出し、たれがお肉にしみ込んでいるか確認する。奏太郎はキャベツの千切りを教えてもらいながら、お皿を準備した。
しょうがとニンニクが混ざりあった匂いで、白いご飯が何杯でもいける。しばらく話をほとんどせずに夢中でかけこんだ。切るのに失敗したキャベツを箸でピロンとやりながら、太郎君と小春さんは、そんな奏太郎のことを微笑ましく眺めていた。
食器を洗い終えソファに座ると、太郎君はどこか落ち着かない様子できょろきょろしだす。
「どうしたの? 何か探してるの?」
訊くと、
「レコーダーがないんだ。今までなくしたことなんてなかったのに」
そう言う太郎君と一緒になってキッチンの周りやリビングルームのテレビ台の下など、探してみたが見当たらない。
おかしいなあ、と太郎君が頭を抱えていると小春さんがベッドルームからやってきた。
「ほら、これじゃない?」
レコーダーを差し出す。
「おかしいな。リビングに置いてたはずなのに……でもよかった。ありがとう」
太郎君は今日の記録を吹き込む。
《今日は生姜焼きを作りました。玉ねぎを飴色になるまで炒めて、生姜焼き用のちょっと分厚いロースにたれをしみこませる。みりんと醤油とお酒とすりおろしたしょうが。でも特別なのは、ここでニンニクもすりおろして入れること。小春さんはこの味が大好きで、奏太郎は今日、初めて食べた味だと言ってご飯を三杯もおかわりしました》
奏太郎は、記録を吹き込む太郎君の姿を見つめる小春さんの表情に、今日地下鉄の駅の出口から出てきたときの、あのどこか寂しい感じを思い出していた。
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