《 7 》

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《 7 》

 しばらく歩くと通りの向こう、地下鉄の出口付近にいる小春さんを見かけた。手には大きな封筒を持っている。そして近くのカフェに一人入り、窓側の席に座ったのが見える。  窓越しに奏太郎の姿を見つけると、いつもの明るい笑顔に戻り手招きする。 「いらっしゃいませ」  小学生の奏太郎が一人で入ってきたので店員は少し戸惑いながらも、「店内でお召し上がりになりますか」と声をかけてくる。 「あ、私頼みます。この子の分」  小春さんはオレンジジュースを頼んでくれた。お金を渡そうとすると「いいのよ、私が呼んだんだから」と隣の席を空けてくれた。 「ブドウがなくってね。ごめんね。私は大人のブラック」  ウインクをして、いつもの調子で話す。  小春さんのカバンからちらりと見えている白い封筒には、どこかで見たことのある赤いマークが書かれている。あれは確か、病院のマークだ。昔、おじいちゃんが入院していたときに母さんが家に持ち帰ったものと同じだった。 「小春さん、病院に行ったの?」  その言葉に小春さんははっとし、すぐにとりなして 「どうして?」 「おじいちゃんが入院してたときも、おんなじの見たことある。小春さんは病気なの?」  封筒を指差し言うと、小春さんは穏やかに微笑んで、取り繕うこともせずに話し始めた。 「私ね、あとちょっとしか生きられないんだって。全然元気な感じだから私も信じられないんだけど」  紅色の舌をピッと出すと、お茶目に笑う。  小春さんが、死ぬ……?  そんなショックなことをどうしてこの人はこんな表情で話せるのだろう。  奏太郎には全然わからなかった。 「なんでだよ……嫌だよ」  怒るような口調になっていた。 「ごめんね。せっかく仲良くなれたのに。でも、太郎君はこのこと覚えてないんだ。だから、言わないでほしいの」  レコーダーの記録を消したの――。  小春さんはそう言った。余命の宣告を受けた日、太郎君に話すと彼は泣きながら録音したという。 《今日ガパオライスを作ろうと思っていました。でも小春さんは、もうすぐ死んでしまうと言いました。あと三ヶ月。僕は、小春さんがいなくなったあとの世界を想像することができません。今日はご飯を作らずに眠ろうと思います》 「でもね、その後やっぱり言わなきゃよかった、って思い直したの。だって、死ぬってわかってることが何になるっていうの。最後まで、最後の日まで楽しく過ごしたいんだ、私は。太郎君と、そして奏太郎とね」  この間の土曜日、レコーダーがなくなったと探していた太郎君と、それを見つけたとベッドルームから出てきた小春さんの姿を、奏太郎は思い出した。  あのとき、記録を消したんじゃないだろうか――。  窓越しに滴る雨の雫を目で追うように、一点を見つめながら小春さんは言う。 「私の父はずうっと病気でね、ちっちゃい頃からお見舞いばっかりしてたの。だから兄も母もいつも元気がなかった。知ってるんだ、私は。人が死ぬかもしれないっていう思いが、どれだけ寂しくて、よくないエネルギーを生むかってことを。  太郎君に、つらい顔してほしくないんだよね。太郎君は人一倍、寂しがり屋だから」  自分勝手だね。奏太郎はこんな大人には、ならないでね――。  そいで、太郎君のこと、よろしくね、奏太郎。  その次と次の土曜日はピアノのレッスンに行った。コンクールも近づいてきているので、一層練習が厳しくなってきていて、心が折れてしまいそうだった。うまく弾こうとすればするほど弾けなくなるピアノ。何度も必死で目で追っても逃げていく音符たち。  太郎君と小春さんに会いたい。  太郎君と一緒にキッチンに立って、料理して、お昼ご飯を食べたい。  小春さんはあの後どうしたんだろうか。太郎君は覚えていない、ままなのか――。  頭の中が混乱してどうしようもなかった。  小春さんと太郎君に偶然会ったのは、水曜日の学校の帰りだった。駅前のスーパーの入口で「奏太郎、久しぶりだね」と二人が声をかけてきた。  午後三時。ホットケーキを焼くというので、奏太郎はミックスを混ぜるのを手伝った。弱火のフライパンにじゅっと生地のタネを流し込んで、じっくりきつね色に焼かれていくのをじっと見ていると、太郎君が口を開いた。 「奏太郎、弾き語りやるんだってな」 「ひきがたり?」 「ピアノを弾きながら歌うこと。かっこいいなあ。小春さんが言ってた」  太郎君は器用にホットケーキを裏返す。 「別にかっこよくなんかないし。しかもまだ歌ってない」  そう答えると小春さんが後ろから 「いやいや、奏太郎は絶対弾き語りミュージシャンになるんだから」 「でも母さんにはまだ言えてないから……」  奏太郎が躊躇いながら話すと、 「お母さんは知らないだけで、歌を歌いたいって言ったら、応援してくれるんじゃないの?」  小春さんが続ける。    太郎君が焼き上がったホットケーキを平皿に写す。バターを一欠片のせ、シロップを冷蔵庫から取り出してリビングに運ぶ。 「歌を歌いたいんだって、本当のこと言ってみたらいいのに」  小春さんが言うので、 「……自分だって、本当のことなんか言ってないくせに!」  自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。 「どうした、奏太郎?」  テーブルにお皿を並べていた太郎君が心配そうな顔で振り返る。  小春さんは一瞬とても悲しそうな顔のまま固まった。今まで見たことのない表情。  そうしてちょっとするとすぐにいつもの笑顔に戻って、 「あ、そういえば。うちはフォークとナイフだけはいっぱいあるんだよねえ」  ザラザラと銀食器のぶつかる音を立てながら背を向けてキッチンの方へ戻る。その小さな背中が泣いている、ように思えた。  奏太郎はその場にいられなくって、玄関を飛び出した。 「奏太郎……?」  後ろから太郎君の呼び止める声がしたが、構わず走った。  なんてことを言ってしまったんだろう――。  ひどく後悔した。その夜は家に帰ってすぐにベッドにもぐりこんだ。練習をしないので母さんはとても怒っているみたいだったけど、今はそんなのは何でもない。  もう太郎君と小春さんには会えないんじゃないか――そっちの方がずっと怖かった。
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