《 8 》

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《 8 》

 次の週、レッスンを終え出てきた奏太郎をピアノ教室の前で待っていたのは太郎君だった。 「奏太郎」  その声がすごく懐かしく思えて、きゅっと口を結んだ。 「今日、夕立が降るらしいんだ」  そう言って右手に持った鈍色の傘を見せる。 「折りたたみ傘を持ってきてくれれば良かったのに。忘れたやつ」 「今度、とりにおいで」  二人は並んで歩きだした。 「知ってたんだ」  太郎君は徐に呟く。  太郎君は知っていたのだ。小春さんがあと少ししか生きられないこと。そして、自分が残したその録音をきっと小春さんが消したのだろうということ。 「かわいくて強い人。でも小春さんもそんなに強くは、ないんだ」  太郎君は語りだした。  録音を消された後、数日間は確かに思い出さなかった。記憶の中から小春さんの余命宣告については消えていた。でもある日、小春さんのドレッサーの近くに病院の診察券と書類を見つけて、全てを思い出し、そして知ったんだ。  けれど、なぜ自分が知らないふりをしなければならないのかも分かってた。今までと変わらない生活をしたいという小春さんの願いも。だから、知らないふりをしていたんだ。  でもね、小春さんがもし、彼女が死んだあとの僕のことを心配しているのなら、それは違うと思ったんだ。  だって、僕は大丈夫。僕は、小春さんが思ってる以上に小春さんのことが好きだから。あんなに明るい小春さんが天国から心配するなんてことがあったらいけない。僕は、小春さんを困らせたりしないよ。  そう言って、 「もう一度ね。作ってみることにしたんだ。帽子を」  一冊のノートを差し出した。  そこには様々な形の、色の、帽子のデザインが書かれていた。 「記憶がどんどん薄くなって、覚える力が弱くなって、アイデアを忘れてしまうことも多くなった。だから僕は怖くなったんだ。帽子を作り続けていくことが。でもね。もう一度、お店を始めてみようと思うんだ。小春さんのために……。  奏太郎。だから、大丈夫だから。また遊びに来てな。小春さんと三人で一緒にごはん作って食べよう」  八月の賞で、奏太郎は去年よりも一つ上の賞を取った。そして賞を取った代わりに母さんにお願いをした。 「歌を歌いたいんだ」  弾きながら歌わせてくれないか――。  初めて聞く奏太郎の想いに母さんは始めは動揺していた様子だったが、やがて教室の先生にも話してくれて、奏太郎のピアノはクラシック音楽ではなく、ポップが中心になり、いつしか自分で曲を書いてみたいと思うようになった。  ピアノが嫌いにになったわけじゃない。でもただ、好きなものが一つ増えたのだ。 《今日はカレーを作ります。ジャガイモと玉ねぎとニンジンと……野菜がごろごろ入った田舎風カレーです。明日になったら小春さんは入院します。今日は奏太郎が来てくれるので、とても楽しみにしています》 「奏太郎!」  玄関に入ると、お玉を片手に太郎君が駆けだしてきた。 「作るぞ!」  そう言う太郎君を見て 「どっちが弟だか、わかんないなーもう」  小春さんはケラケラ笑った。  少し痩せた感じがするけれど、そのはじける笑顔は変わらない。小春さんは笑顔で奏太郎を招き入れる。  よいしょと台に乗るといつもの高さ。奏太郎は玉ねぎの皮をむき、ジャガイモの芽をとって水にさらし、ニンジンを一口大に切る。 「きっと、ここまでだったら肉じゃがにもなれる」  太郎君が呟く。 「え?」 「材料はほとんど同じってこと。肉じゃがもカレーも」 「へえ」 「でも不思議だよな。最後まで作ってみると、全然違うものになる」  太郎君はニカッと微笑むと、煮込まれるまでの少しの間、帽子の話を始めた。  今作ろうと思っているのは五種類。女性でも男性でもデザインが気に入れば関係なくかぶれるものでつばの広いハットは素材をコットンと、麦わら素材で分けて二種類ずつ。スポーティなキャップを一種類。ベレー帽を色違いで二種類だ。 「そいで、これ。奏太郎に」  それは藍色のキャップだった。軽い生地で少し大きめ。フォークのような形の白い刺繍マークが、縫われている。 「これ何?」 「これは、僕が作ったっていうマークだよ」 「太郎君がキャップを作るのは珍しいね」  小春さんは言う。 「これ、大きすぎてぶかぶかなんだけど」  すると太郎君は前かがみになってキャップの先を深くつまむ。 「今はいいんだ。もう少し大きくなって、奏太郎が歌手として有名になったとき、これかぶってくれ。きっと見つけにいくから」  太郎君のその言葉に小春さんも大きく頷いて、 「私も。空の高い高ーいところからでも見つけるから」  奏太郎は帽子のつばをきゅっと強くつまむ。  歌を始めたことを一番喜んでくれたのは、太郎君と小春さんだった。いつのまにか煮込まれたカレーのいい匂いがたちこめてきて、急いで鍋の火を止めにいく。小春さんが白米を平皿によそると、太郎君がその上に熱々のルーをかける。 「いただきます」  カレーは今まで家でだってレストランでだって、何度も食べたことがあるのに、どうして今日のカレーはこんなに美味しいんだろう。奏太郎は夢中で頬張り続けた。  食器を洗う太郎君と奏太郎の横で、小春さんはいつものように豆を挽き、コーヒーを淹れる。 「新しい豆を買ったの」  また飲めるといいな、そう言うと明るく笑った。  土曜日の午後。何のつながりもない太郎君と小春さんとの、三人で過ごすこの時間がずっと続いていけばいいのに……そんなことをきっと太郎君と小春さんも思ってくれてたらいいな、と奏太郎は心の底からそう願った。  そしていつか、二人に自分の歌声を届けることができたら……。  あのとき、太郎君と出会ったあの日、雨が降っていなかったらきっと太郎君が傘を持って追いかけてきてくれることもなかったかもしれない。小春さんと出会って一緒にこうしてご飯を食べることも、笑うことも。  雨は嫌いじゃないと誰かが言っていた。  奏太郎は、あの季節に感謝した。そして、いつか空のずっと高いところに小春さんがいってしまっても、奏太郎を見つけてあのキラキラした表情で笑ってくれますように――。
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