《 1 》

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 湿った生ぬるい風が頬をかすめる。あと一時間もしたらきっと降り出すに違いない。  通りの反対側で、ライブハウスに並ぶ人の群れを遠くから見てみると、いよいよ自分が本当にデビューするのだという実感がようやく湧いてきた。奏太郎はミネラルウォーターを口に含み、藍色のキャップを目深にかぶる。  つばの先にはフォークの形のような白い刺繍マーク。  ふいに気配を感じ振り向くと、視線を同じくしていたのは、弥生だった。弥生は大学時代のサークルの同期で、今は音楽系の雑誌を専門に出版する編集者でライターをしている。 「いよいよか、奏太郎のデビュー」  弥生は深くため息をつく。 「ああ。そうだな」 「もう、私の方が緊張してきちゃったかも」  と自分の頬を両手でぱちぱちとやっていた弥生は、ふと思い出したように尋ねる。 「てか奏太郎の誕生日ってさ、九月とかじゃなかったっけ」 「誕生日? ああ、そうだけど」  弥生は大げさなくらいに体をそらせて目をまん丸くすると、 「だよねえ! えーじゃあやっぱ今月が誕生月とかじゃないんじゃん」  こくりと頷くと、弥生は何を疑っているのか目を細める。 「じゃあなんかの記念日があるの? デビューの月、奏太郎がなんか六月にこだわりあるみたいだったって、舟木さんが言ってたよ」  舟木さんというのは、今回奏太郎の歌手デビューをバックアップしてくれたプロデューサーだ。今度はいたずらっぽい目で覗き込んでくる。 「いや……」 「はあ……もうここまできたんだし、そろそろ教えてくれてもいいんじゃん」  弥生は口を尖らせながら、奏太郎のキャップを「えいっ」ととって後れ毛を押し込みながらかぶろうとするので、「よっと」とその手を止めて取り返す。  一瞬ふてくされた弥生はふうと一息つくと、さっきとは打って変わり穏やかな表情で訊く。 「結局さ、奏太郎は誰のためにあの曲を作ったの?」  あの曲、というのは今回のデビュー曲「SATURDAY」のことだ。この曲が書けた時、月並みな言葉だけどずっとこれを書くために音楽を続けてきたのだと、そう思った。 「これは……ある夫婦についての曲なんだ」 「夫婦? まだ結婚もしたことないくせに」  弥生が笑って肩を突く。 「あ、てかもう時間じゃん。その話、絶対終わったら聞かせてよね」  そう言って通りの向こうへ走り出す弥生の背中を追いながら、曖昧な色合いの空を見上げ思う。  僕はこれから奏でるんだ――あの二人に捧ぐ、たった一つの音楽を。
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