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大きな樹。しかし幹がどこか頼りなく、支柱が至るところで伸びた枝を支えている。きっと老木なのだろう。けれどもその姿は、哀れさよりもこの樹が大切にされていることを、より強くこちらに伝えていた。案の定、この樹は大社の御神木なのだという。近くに設置された看板にそう記されていた。
「いい匂いでしょ?」
「?」
声の方へ顔を向ける。いたのは、ヨレヨレのTシャツにジャージという出で立ちの爺さんが一人。七十代か、八十代といったところだろうか。カップ酒を片手に、上機嫌な笑みを浮かべている。
「これね、ここの御神木なんだよ」
「はぁ」
「いい時期に来たね。あと半月もしたら雨やら風やらで、花、落ちちゃうから」
「そうですか……」
「お嬢さん、一人?」
「はい」
「旅行?」
爺さんの目が、こちらのボストンバッグに向く。
「はい」
「何泊よ」
「一泊二日で」
「はぁ……あのさ」
「はい」
「鹿ぁ見た?」
「鹿?」
思わず問い返す。
「いるんだよ。あっちの、奥の方に」
戸惑う私に構うことなく、爺さんはそのままの調子で話を続ける。
「夏に子どもも生まれて。見てくといいよ」
「あ、ハイ」
こんな調子で、爺さんの話はなかなか途切れなかった。私も私で、一生懸命話す爺さんの厚意を無下にすることもできずに、「ハイ、ハイ」と話を聴き続けてしまった。
「で、このあとはどこ行くの。熱海の方なんか行くの?」
「いえ……」
やっと話題が戻ってきた、と思いながら、私はその問いに答えた。
「宿は三島で取ってるんですけど、明日は沼津に行こうと思っていて」
「そう。沼津もいいね」
深く頷いた爺さんは、またも唐突に言った。
「一人旅かぁ……いいよなぁ。特に、濁世(じょくせ)のしがらみを断ち切って、一人で考え事でもしたい時なんかにゃ丁度いい」
「……はい」
一瞬、息が止まるかと思った。
「はは、長々とごめんねぇ」
ようやく満足したのか、爺さんは「じゃあ、楽しんでってね」とこちらに告げて、ふらふらとその場から離れていった。
「……」
まだ、心臓の鼓動が喉元まで響いている。
(何だったんだ、あの爺さんは……)
彼の背中を見送りながら、口の中で呟いた。
「……あ」
お参り。
私は砂利を鳴らして、速足で本殿へと向かった。
***
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