三大香木―金木犀― カミサマはそこにいた

5/8
前へ
/8ページ
次へ
(……そもそも、さ)  浜へ続く階段を下りながら思う。 (別に、行き先なんてどこでも良かったんだよね) 書店でたまたま目に留まったガイドブックを立ち読みして、なんとなく決めただけ。三島にも沼津にも、これといった縁はない。  私のことなど誰も知らない、そんな場所に行きたかった。その条件さえクリアできれば、どこでも良かった。  一人に、とにかく一人になりたかった。 「……」  浜の砂利を踏みしめて、さらに波打ち際へと近づいていく。  穏やかな海。  雲間から海面に向かって、柔らかい日の光が差し込んでいる。 「……」  せわしない日常の中では、聞き取れない気がした。  私の、本心の声。 「……」  周りの人間が知る「日向(ひゅうが)みのり」ではなくて、もっと奥の、名前すらない、私の中の私の声。それは、日常の中にいると周囲の雑音にかき消されて、聞き取れなくなってしまう。 (誰に言ったって、きっと分かってくれないんだけどさ)  だから一人になりたかった。「何それ」なんて鼻で嗤われるよりも先に、一人になって、「名前のない私」と向き合いたかった。 ――僕と、結婚してください――  あの時、「これは雰囲気で返事するもんじゃない」と、「大事なことだからちゃんと考えなさい」と、胸の奥で、「名前のない私」が叫んだ。 ――考えさせて――  だから、素直に「はい」と言えなかった。  決して、修が悪いわけではない。 「ふぅ……」  波打ち際から少し離れた砂利の乾いているところで足を止め、腰を下ろす。相変わらず、吹いてくる潮風が心地良かった。 「……」  やっと、一人になれた。  そう思った。 (何が、引き留めさせたんだろうね、私をさ) 「名前のない私」に問う。  修は、良い人だ。でも、時々不安になる。本当に私を好きなのか。 ――みのりはしっかり者だね――  彼はよく、そんなことを口にする。  それが、私には少し哀しかった。 (どこを見てるの)  そんな問いが、行き場なく胸の中を彷徨う。 (ねぇ、修……)  私はね、しっかり者じゃないんだよ。頑張って、しっかりしているように見せているだけ。  今もそうでしょ?  アナタの言葉に動揺して、こんなところまで来ちゃったんだよ。アナタを置いて、一人きりで。  正直、一緒にいるのがしんどかったりするよ。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加