ユートピア・デストピア

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 ユートピア・デストピア 「俺は大陸に渡って馬賊と戦うんだ」  多佳の亭主惣一郎はある日思い立ったように宣言した。  惣一郎は鼻息も慌ただしくまくしたてる。目も輝いてる。こんなことは珍しい「何があったんだろう」多佳はいぶかしがった。  このところの不景気でいわゆる百姓たちの打ち壊しもあり、庄屋の惣一郎も責めを負って、家のやりくりもままなかった。そして土地のいくらかは切り売りしなくてはならなかった。 「大陸に行けば、広大な土地が手に入る。開墾し放題だ。なんぼでも米を作れる。俺の土地と交換すれば、収穫は何百倍にもなる」 「交換?」  多佳は息を呑んだ。本当だろうかと首をかしげた。 「地平線、分るか地平線。何もない土地に、、何処までも何処までも、続く。 弾丸のような列車が、高速でそこを走る、俺たちはそこに、新しい国を作るんだ」 「新しい国?」 多佳はついていけない。 「大陸では鉄道が開ける。国策だからな、いまから作る国だ。その鉄道の株を買えば大もうけができるし、新しい国造りにも貢献できるってものだ。大陸で俺ははかりしれなりの力を持つことができる」  多佳が女学校を卒業前に退学し、この家に嫁いで十年になるだろうか。それまで惣一郎は寡黙で朴訥なだけの男だった。庄屋の若奥様といっても家事のことはことごとく多佳にかけられた。姑も口うるさくなにごとにつけても「うちではこういうしきたりだ」と箸の上げ下ろしまでそのしきたりをくどくどとたたき込まれた。 しかしあの騒動以来、姑のしょぼくれようは、多佳にとっても目を覆いたくなるようだった。あんなに毅然としていて、背筋をピンと伸ばしていた姑はゴム風船がしぼむようになっている。まだ還暦の前のはずだ。 「どうしたものかねえ」  姑はくちぐせのようにつぶやき 「あたしゃあ。志那なんぞに行きたくないよ」と吐き捨てるようにいった。  六歳になる惣太郎は、打ち壊し遊びに夢中だ、野良犬を追い回しては、虐めているらしい・ 「俺たちは、悪者のノラをこらしめてやるんだ。ゴミを漁り。ちらけては、子どもや女の子のはかみつく、昼も夜もかまわず吠えまくる。俺たちは棍棒でうちのめしてやたったんだ」たと勝ち誇ったように惚太郎は自慢げに言う。米問屋に押し入り打ちこわしを行った、丑松という男は町の英雄になっていたし、子供たちにとっても憧れの的になっていた。 「何やってるんだい、弱い犬ころを虐めてどうするんだい」  「だってあいつらをのさばらして、おいちゃ示しがつかない、みんな困ってるんだ。なんとかしなくちゃいけないんだ」 「なぜ、おまえらがそんなことするんだい、可哀想じゃないかい」 「かわいそなもんかい」 「殺生はいけないよ」  殺された犬もあるという、足を折られて、びっこを引いてるのもいる。 「お前たち子どもがやることじゃないよ、野犬狩りは大人の仕事だ」 「大人なんて信用できるか」  惚太郎はこれ以上小言を聞いていたくない。 「俺は悪いことをしていない、むしろ褒めてほしい」  幼い子がこんな生意気なことをいう、こんなご時世だ。 「母さんは、許せないよ、こづかいもやらないからね」 「もういいかなー友だちが待ってんだ」 「それだけじゃないだろ」 「もうないよ」  そのまま惚太郎はプイっと出て行ってしまった。  男は「ドンファン」でこの話に興味を持った人たち一人ひとりに、面接をするように勧誘をしていた。高価そうな真っ白いスーツ。ほんのりと香水のようなものをつけている。男の体は痩せても太ってもいず、小柄で、ぎょろぎょろとした目に丸い縁の眼鏡をしていた。  一見おどおどしながら、小さな声で説明をしながらずり落ちた眼鏡を中指で押し上げている。  総一郎には正直そうな人柄に見えた。  ドンファンではいつも静かな蓄音機の音楽が流れている。 「モーツァルトです。ヨウロッパの貴族の優雅な曲でしょ。私たちの造ろうとしているのはモーツァルトの似合う街なのです。ここで西洋風の商いをすることもひとつの夢です。私も今の斡旋の仕事を終え、洋装の商いをしたいと考えているのです。  そう言って男は真新しいスーツの襟を合わせた。 総一郎は子の男の言に、「ほー」とか「なるほど」とか「すごいですな」とどんどん引き込まれている。 多佳は姑の愚痴を、毎日しつこく聞かされることになった。 「本当どうなっちまんだろう」 朔太郎が、あの男に大金を出している。うまい口車で沢山株券を買おうとしているのだ。 「いつの間にか、大事にしていた池大雅や白隠さんの掛け軸を売ってしまった。家に代々伝わってきたものなのに……お前なんでそんなことに気づかなかったんだい」  池大雅だの白隠など初めて聞く話だ。多佳にそんなこと分かるはずもない。ましてその値打など。 「おまえがしっかりしてくれていたなら……お前がしっかりしていてくれたら」と姑は多佳の目を見て涙ながらに愚痴る。  姑はまだ古希前だというのに、背が丸くなり、奥の間にちょこんと座り、文字道理の奥様だ。  舅は昨年の暮れに卒中になり体が不随になり、呂律もまわらず、下女が、食事を匙で与えたり下の世話までしている。家のこと全てが、息子の総一郎に被さったが、。村の寄り合いにしても家同士のもめごともよくまとめてくれている。小作人たちからの評判も悪くはなかった。  しかし、農民たちの打ちこわしなどがあちこちで頻繁になり、米問屋は言うにおよばず、総一郎のような庄屋にも図らずも影響があった。米蔵の米安く買いたたかれ、残りも底をつき、打ちこわしの責任すら取らされるはめなったのだ。 それがあの男が現れてからのことだ。 その男は夢を語った。  モダーンな未来都市。銀色に輝く飛行船。白亜の建物背然と行きかう自動車。美しい街がどこまでも続いている。  何もない荒野から、都市が現れる。しかしそれ以上に広がる大陸の荒野。だからこそ何かを生み出すことができるのだ。私たちの夢は実現できるんだ。 「ねえ、あんた本当に大丈夫なのかい」 「何が」 「あのこと」  「あのことって」 「あの人のことだよ」 「田中さんのことか」 「ええ、頭から信じていいの」 「ああ立派な人だ。大陸におおきな街を創ろうとしてるんだ」 「それって何か変じゃない」 「あの人はゼントルメンだ。英語も得意だ。ドイツ語だって得意だ」 「でも」 「文句をいうな、口出しをするな」  このようにいつも、亭主との話は終わってしまう。  田中何某の「満洲旅客飛行船株式会社」の説明会は新村病院の講堂で行われた。院長は篤志家で人々の人望も厚い、この人に見込まれたのだから。さぞや信用できる人物だろうと皆は思った。  恰幅のいい男が立ち上がって、天井から吊るされた大きな亜細亜大陸の地図を広げて見せた。   登壇した白いスーツの男、田中は神経質そうに丸眼鏡を上げ、演説をはじめた。 「我々はこの広い土地を勝ち取った。勝利だ。誰もが認めることができる勝利だ。しかるに露西亜、欧州の野蛮な国はそれを押さえ込もうとしている、いや我が国だけではない、アジアを、清国を押さえ込もうとしている。そして独立せんとしている満洲国だ」  聴衆はどよめいた。集まっていたのは、惣一郎をはじめ、この不景気で損ばかりしてきている地主や大店の主人たちだ。 「しかるに政府は自らの無能ぶりを隠すように疑獄事件をおこしたにも関わらず、シベリアに出兵しようとしている。何万という日本人が殺された露西亜へだ。みなさん遼東半島に眠る兵の苦しみ怨念を晴らそうではありませんか」  田中はコップの水をグイと飲みほした。 「この大陸を、走る鉄道は我々日本のものとなっております。さらにこれを広め、その駅ごとに都市を創るのです。未来都市です!」  聴衆の目の前に、その未来都市とする整然とした都市の掛図が示された。未来都市という言葉に人々は引き付けられ、その掛図に魅了された。 「みなさん、きょう皆さんに提案させていただきたいのは飛行船のことです『満洲飛行船株式会社』のことです」   今度は目の前に、銀色に輝く細い繭が講堂いっぱいに浮かび上がった。 「飛行船です!」と田中は胸を張って叫んだ。 「下についているこの赤いゴンドラで百人は乗ることができます。悠々と観光ができます。舞踏会のようなパーティーもできるのです。満蒙の土地を自由に行きかうことさえできるのです」田中はここで水を飲んだ。そして新聞くらいの写真を見せたい。広い部屋で外国人たちが酒や料理で楽しんでいる。 「さて、私どもの会社でみなさんにお願いしたいのはこの、飛行船のことです。鉄道は国のもの一部の財閥のもの、となってしいました。この地から出る石油、石炭もしょせんそいつらのものです。そう我々に残されているのは……」  人差し指を上に差し出し、 「空です。空しかないのですお願いしまし。ご協力ください」と言うとその場に足を折って平伏した。周りの者も足を折り深々と頭を下げた。  聴衆からは拍手がわきおこっていた。  その後、街には色とりどりの小さな飛行船が空に浮かんだ。駅前で田中たちが、ガスの入った飛行船型の風船をくばり、子どもたちも、奪い合うように取り合い、町は飛行船でいっぱいになったのだ。 「家の田畑を売れば、飛行船に出資できる。その持ち主になれる!」  惚太郎は多佳の目を見て話し始めた。 「計算してたんだ。この土地を売れば出資に充てられる。配当はいくらにでもなる」 「でもまだお母さんが……お父さんはどうするんです」 「大丈夫、まだやっていける金はある。まだ財産は半分もあるんだからな」 「半分……」  多佳の不安は増した。 「旦那様も、大陸に行かれるんですか」 「ああ、当り前じゃないか」 「でも……」 「家族そろって移住だ。先ずは飛行船でもうける。十分金をためて移住するんだ」  田中という人は、昔自分たちを裏切った作家の木島と似ているように感じた。 夢ばかりを語る、そしてその夢で人々を酔わせ伝染させていく。あの作家は警官に追われながらも夢をさけび続けていた。しかしその夢はあえなく消え去った。木島自身が皆の夢を消し去ったのだ。 紀子先生は行方不明のままだ。  多佳は喜久に会うため、久しぶりに街へでた。町で行きかう子供たちはみんな「満航」と書かれた楕円形の風船を握りしめている。色とりどりのそれはとても華やかに見えた。  喜久とは「ドンファン」で待ち合わせた。 「馬賊といってももともと住んでる人でしょ、いきなりよそ者が入ってくれば、おこるのは、あたりまえよ」  喜久の言葉は当を得て、すっきりとする。多佳は今ままでのいきさつを話すと、眉をひそめてて、「それはやっぱり、詐欺よ」と昔から真面目だった喜久はきっぱりいった。 「満州旅客飛行船株式会社か……学校でもみんな風船を持ってくるので叱るのに大変なのよ。戦争のあとあちこちで儲け話があるわよ。そりゃあ満洲にてもたしかなことはあるかもしれないと思うけど、国策や財閥といっても裏の裏で糸を引く人もたくさんいるだろうし」 「喜久さん人が変わったみたい」 「えっ、そう」 「そんなにたくさんお話をされるなんて」 「うーん、主人のおかげかもね」 「ご主人も先生をしていたのよね」 「ええ、とても情熱家よ」 「へえ」 「民主主義、デモクラシーを子どもたちに伝えるんだって」 「民主主義……こどもたちにそんなことを言って大丈夫なの?」  木島の事がおもいだされた。 「日々のくらし、みんなと仲良くすること、思いやること、当り前のことを教えてるだけよ」  少し冷えたコーヒ―を二人は啜った。 「紅林、今どうしてるか知ってる?」 「うん晴子さんから聞いたんだけど、東京の田舎で、体の不自由な人たちの学校を創ったていうの。流石先生ね」  二人は紅林先生や昔のことに話を咲かせた。 「いい、多佳さんその田中っていう人のこと信じちゃいけないわよ」と喜久は真顔になって念を押した。 「ただ今もどりました」 薄暗い土間に立って、声をかけた、先月まで女中を雇っていたが、舅の世話をやいている年配のものが離れにいるが。この者以外辞めてしまい出迎える者が今は誰もいない。 土間から座敷には高くよじ登るようにしなくてはならない、ここへ嫁いでからもう何年もたつというのにいまだコツがつかめない。 単に運動神経の問題なのかもしれないと多佳は思う。 「戻りました」  部屋にいる総一郎に多佳は声をかけた、しかし返事はない。 「帰りました」と跪き襖を開けた。 部屋期は大きな「大東亜全図」が貼られている。所々に朱の丸がしてあり、なにやら書き込みがされていた。部屋いっぱいに書類が散らばり、その中に総一郎は鼾をかいて寝ていた。天井の梁には子供たちが持っていた風船がいっぱい華やぎさえ感じるようににひかかっている。 机の上には飛行船の写真があり、その中に多佳も知っている陸軍の「勇飛」があった。 何年か前、巨大なそれはゆっくり街の上を進んでいた。 戦争であれだけ威勢のいいことをした陸軍が、こんなにものんびりした大きなものをこしらえたものだと、その時の多佳は思った。そして今ここで寝ている惣一郎の鼾がそのエンジン音に似ていると思った。 多佳はあれこれと心配になり、役場や警察へ相談に行った。 「まだ何も被害を受けた訳ではないんだろ、金をとられるなり、何事か怠ら俣来なさい」と年配の警察官はめんどくさげに言った。 「田中とかいったね。まじめそうでいい男だよ、会社設立のあいさつにこんなに上等の酒も持て来た。越後のいい酒だ、何、大陸のことなど、役場ではわからん、お国のやってることだ、そんなこと恐れ多い、知らん、知らん、しらん」役場でもそんなことを言っている。 多佳の不安は増した。  あの事件、打ちこわし騒動のあるまえなら、惣一郎のことを多佳は頼もしくしていた。冷静で朴訥に見えていた惣太郎がどうしてあんなにも変わってしまったんだろう、なにかが憑りついてしまったのだろうか。  多佳は惣一郎の妻であることは隠して、田中に会いに行くことにした。間接的にしかわらないこの投資話が良いものなのかどうなのか自分を納得させたかったのだ。  事務室は真新しいビルジングにあった。 「いつの間にこんな物ができたのだろう」  街は日を追うごとに変わっていく、明治のころの煉瓦造りの厳めしいものから、小ざっぱりした白い清潔な感じだが、安っぽい。  事務室の「満州旅客飛行船株式会社」と書かれたガラスのドア開けると、前の机に赤いワンンピースで短髪の女がいて、煙草をふかして。赤い唇から、ゆっくりと紫煙をはいていた。  女は多佳に気づくと、煙草をもみけして「いらっしゃいませ、どうぞこちらへ」と応のソファーに案内して  「お客様です」と奥に告げた。 田中は白い服で背も低く度の高そうな丸い眼鏡をしている。多佳の前に座ると、 「いらっしゃいませ、飛行船に興味が御ありですか、ご婦人なのに……。いや宿屋や料亭の女将さんも出資くださっています。小口ですがカフエーの女給さんもいます。とても手堅い出資です。あなたは何をしてらっしゃるんですか」 「いえ、ちょと」 「そうですか、そうですか、ところであなたは飛行船を見たことがありますか」 「ええ」と多佳が答えようとすると、すかさず田中は、 「これです」と写真を見せた。 「ドイツのツェッペリン伯爵の飛行船です」  惣一郎の部屋にあったものと同じで、サンマ型の巨大な奇妙なものがある。写っているひととくらべると測りしれない。女が派手に絵付けされたコーヒーカップを二人の前に置いた。紅く塗られた指先に多佳は一瞬気後れがした。 「ブラジルのコーヒーです取引をしている商社から特別に譲ってもらたものです」と田中は足を組んだ。 「僕はね、ドイツに行って実際に飛行船に乗りました。実に爽快でした。この下にあるゴンドラは広くて舞踏会でも開けます。日本の船の二等より実に豪華だ。眼下に広がるドイツの街並みを見下ろし、ワインを酌み交わすのです」 田中はコーヒーを一口飲むと、 「で、出資ですが、一口百株からとお願いしています。千、五千と出される方もいます。我々も大陸に夢を抱いています、単なる金儲けではありません。夢なのです。あなたも我々と新しい夢を見ませんか」  口をつけたコーヒーはドンフアンにくらべていささか不味いと、多佳は感じた。  姑が仏間で団扇太鼓を低い声で御題目を唱えている。 「ナンミョーホーレンゲーキョー」 姑の口癖は「惣太郎は悪いものに憑かれてしまった、憑かれてしまった」といっていたが、それを打ち払うかのように、 「ナンミョーホーレンゲーキョー」と何回も何回も唱える。 舅の具合も日に日に悪くなっている。この間まで支えられて厠に行っていたのに、襁褓が必要になっている。多佳や女中が匙で与える粥ですら、口角から溢してしまう。今回の飛行船の件もどの程度わかっているのか、惣太郎の説明にも声にならない声で笑っているだけだ。  多佳は姑の御題目を聞くうちにますます不安になった。 「やはり、亭主は騙されているんだ」 「飛行船が来るぞ‼ 田中さんが、こんなに『飛行船が来る!』の広告を作ってくれた。俺も配るように頼まれたんだ。十一月三日、安倍川の河川敷にやって来る。陸軍の南田少佐が乗り付けくれる。沢山、人を集めるぞ! 少佐を讃えるんだ!」と惣太郎ははしゃいでいた。そのことは今朝の新聞でも伝えられている。  その日、蒼い空に黒い点のような飛行船を発見したのは、惣一郎だった。 「見えたぞ、見えたぞ」 「あそこあそこ」 「どこ? どこ?」 「あっつあれだ」  子どもたちは騒ぎだ。  飛行船は徐々にその姿を大きくしてきた。  巨大な船が空に浮かんでいる。銀色の巨体は百メートルはあろうか。  グオーン・グオーンと断続的にエンジン音を響かせて厳かにすら感じる。  人々は日も丸の小旗を振って出迎えた。  歓声がわきあがる。  やがて下につけたゴンドラの操縦士が見え、手を振っているのが分かった。  田中が一段高いところに立ち、声を枯らして叫んだ。 「南田少佐万歳! 南田少佐万歳!」  群衆もそれに唱和して、一層強く日の丸を振った。 「南田少佐万歳!」  多佳はその中にいたが、皆と同調する気を失っていた。惣一郎は惣太郎を肩車して興奮し「万歳! 万歳!」をくりかえした。   飛行船はそのまま安部川湖河川敷には着陸せず、エンジン音を響かせ、おごそかに過ぎ去っていった。    その夜、惣太郎の家には村の衆やその親戚そしてその知り合いが集まっていた。  惚太郎は今まで勉強してきた、飛行船の構造や飛ぶ仕組みあまり上手ともわかりやすいとは言えない調子で声をあげた特に「水素は空気よりも軽いのでここに充満させて浮力を得るのです」とよくわからない「水素」という言葉に声を張り上げた。 「みなさん今日見てのとおり、飛行船は大正の世を、デモクラシーを開いていくのです。新しい世に向けての船、黒船なんぞははるか昔の出来事です。今、飛行船が大陸へ満洲の新しい年の上を行きかうことになるのです。私たちは未来の新しい交通手段を手に入れ、そこに投資することができるのです。みなさん未来に投資しようじゃありませんか」  横で正座した田中は深々と頭を下げた。そして惣太郎のことばを補うようにりにつづけた。 「今日はこの話にご興味を持った方々から手付として、些少で構いませんで、頂きたいと、もいます。まずはおなまえを。もちろん今すぐにご契約いただければ幸甚ではあります。今後の配当はもちろん、株券の価値も十倍、二十倍に上がることは保証いたします」  座敷の隅で聞いていた多佳は、田中の調子よさに、自称社会主義者の木島を見るような気がした。 南田少佐の飛行船は横浜、東京を通って、士官学校の飛行場まで到達し付近の住民から熱烈な歓迎を受けた。  飛行船はさらに北に向かう、きっと北海道、露西亜の防衛にあたるのだろう、惣太郎は拳を強く握りしめた。 その後、飛行船は新潟までたどり着いたが、ここで大事件がおこった。飛行船は港の鉄塔にひっかかり爆発大炎上をしてしまったのだ。水素を充填した機体は、華々しく燃え港を昼間のように明るくしたという。しかし何故かそのことは意外にも新聞に小さく載ったに過 ぎない。 翌日、惣一郎は事情を確かめに行くと「満洲飛行船株式会社」の事務所ものけのからになって田中も、あの事務の女すらいない。 「そんなはずはない、あのまじめなひ弱さえ見えるが、飛行船のことにはあんなに情熱的だった田中が、小作人や職人がなけなしの金を、持ち去ったのだろうか、信じられない」  多佳はその直前、田中の事務所に直談判にのりこみ、田中に総一郎が投資した分をかえすようせまっていた。 「だって、国策だ国策だっていって、本当なんですか」 田中は小声になり「奥さん実は細かな部分は、軍のことですから極秘なんです。そうおおぴらにしてはいけない総一郎さんもそう言ってるはずです」  こんなに大ぴらなことをしておいて、何が極秘なものか。 「じゃあ、私警察に行って、何もかも話しますよ」 「そんな事いっても取り合ってくれませんよ。警察も上層部しか知らないんだ」 「取り合ってもらえなくても、かまいません、私訴えます」 「ええ結構です。でも警察も迷惑でしょうな」  田中はどこまでも冷静だった。  新潟の事故のあと、大勢の人が詐欺ではないかと気づいたが、なかなか警察も動こうとはしなかった。  そのころ多佳は新聞に小さな、記事が載ているのに気づいた。何とかいう評論家の随筆だた。 「先日、新潟での飛行船の悲劇的な事故、及び南田少佐の死は慙愧にたえかねるものであっる。満蒙の地に鉄道とともに新しい道を巨大な交通網を創る。新しい都市を結びつけるのだ。 かの独逸においても飛行船によって、長距離の飛行も可能に足り。大勢の人々移動手段ともなり、軍事的にもその活躍は大いに期待できる。南田少佐の遺志を引き継がなくてはならない云々」  多佳は新聞社に行き南田少佐について調べてみた。  あの事故のことも知る限りのことを編集者から聞きたいし、田中という胡散臭い男についても手掛かりがないかと考えたからだ。  喜久は新聞社で校正の仕事をしていた。喜久が小学校の教師を辞めたのは去年のことだ。  子どもたちのことが好きで好きで教師になったのだが、同じ亭主の言動や、洋装で教壇に立つことを、校長や同僚、保護者にとがめられ、きぱりと職を辞してしまったのだ。 「あれから、調べたのよ」と喜久は言った。  このところの社会不安がつもって詐欺事件は横行している。「小柄な白い洋服で丸眼鏡の男」が詐欺をしているという。しかしその事実は表にはならないらしい。それが田中と同一人物なのかはわからない。、しかし彼はあれだけの集めて、夢の世界へ大陸へ連れて行こうとしたのは確かなことなのだ。 「やはり私、大陸に行ってみるわ。飛行船の詐欺事件以来、被害にあったまわりのひとのこともあるし。ますますここにはいられなくなったから」 「お父さんやお母さんは」 「総一郎さんには兄弟も多いし、今度の事では迷惑もかけたし、お父さん、お母さんにもそのほうがいいと思うの」 「大陸に行って何をするの」 「商売をしてみようと思うの」 「商売って、何ができるの」 「行けば何とかなるわよ」 「斡旋してくれるひとがいたの」 「またまされてるんじゃないの」  そうかもしれないと、多佳は思った。 「そう、開拓する人のホテルや食堂を造るわ」と多佳は突然大声でを出し「何とかなる、何とかなる」と繰り返して自分に言い聞かせた。もう開き直るしかないかもしれない。 「ねえ、喜久さん一緒に行かない?」  喜久はにっこり笑って、それには答えなかった。今務めている新聞社で「女だてら」にも記者の仕事をしてみたいと思った。  二人がドンフアンを出ると、一機の複葉機がけたたましいエンジン音を響かせ、青い空に白い雲を引きながら飛んで行った。                           了 2020 ⒓・4 
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